資治通鑑漢紀四十 孝和皇帝下 元興 元年 105年
春から秋 高句麗討伐
- 春、高句麗王宮が遼東塞内に侵入し、六県を寇掠した。
- 夏四月庚午、天下に大赦を行い、元号を元興と改めた。
- 秋九月、遼東太守耿夔が高句麗を撃ち、これを破った。
冬十二月 和帝崩御
- 辛未、和帝が章徳前殿で崩じた。年は二十七であった。
皇子の秘匿と殤帝擁立
- もともと和帝は皇子をたびたび失っていたため、後に生まれた子らは民間にひそかに養わせ、群臣には知らせていなかった。
- 和帝が崩じると、鄧皇后は民間から皇子たちを集めた。
- 長子の勝には持病があり、少子の隆は生後百余日であったため、その夜のうちに隆を皇太子として迎え、ただちに帝位に即けた。
- 鄧皇后は皇太后となり、臨朝した。
鄧太后の裁断
- 新たに大喪に遭って法禁がまだ整っていない中、宮中で大珠一箱が失われた。
- 太后は、取り調べれば無実の者まで巻き込むと考え、自ら宮人たちを見て顔色を観察し、その場で真犯人に自白させた。
- また、和帝の幸人であった吉成が、御者とともに巫蠱に関わったとして掖庭に下され、証言も整っていたが、太后は、先帝の寵を受けた吉成が以前から悪言を吐かなかったのに、いま突然このような罪に及ぶのは人情に合わないと疑った。
- そこで自ら呼び出して事実を精査したところ、実際には御者の仕業であることが明らかとなり、人々は皆その聖明さに感服した。
北匈奴使節への対応
- 北匈奴は重ねて敦煌に使者を送り、貧しくて礼を整えられないので、大使を派遣してほしい、その際には子を入侍させると願った。
- 太后はこれにも正式な返答はせず、賞賜だけを加えた。
洛陽令王渙の善政
- 洛陽令で広漢の王渙は、身持ちが公正で、明察によって姦伏を摘発し、外には厳格に治めながら内には慈愛を持っていた。
- 彼の裁断には人々が皆満足し、京師では神のようだと評された。
- この年、任地で死去すると、百姓は市中でも道中でも嘆き悲しんだ。
- 王渙の棺が西へ帰る途中、弘農を通ると、人々は道に盆や机を並べて祭った。
- 役人が理由を尋ねると、以前は洛陽へ米を持って行くと吏卒に半ば奪われるのが常だったが、王君が官にあってからは侵害されなかったので、その恩に報いるのだと答えた。
- 洛陽の民は王渙のために祠を立て、詩を作り、祭るたびに弦歌して供えた。
- 太后は、忠良な吏こそ国家の治の基だとして、その子王石を郎中に任じ、勤労を励ました。