資治通鑑漢紀四十 孝和皇帝下 永元 十三年 101年

秋八月 北宮火災

  • 己亥、北宮の盛饌門閣で火災が起きた。

迷唐の衰退

  • 迷唐は再び賜支河曲へ戻り、兵を率いて塞へ向かった。
  • 護羌校尉周鮪は、金城太守侯霸および諸郡兵・属国羌胡あわせて三万人を率いて允川に進んだ。
  • 侯霸が迷唐の種人を破ると、その部衆は瓦解し、六千余口が降った。
  • 降者は漢陽・安定・隴西へ分散移住させた。
  • 迷唐はさらに弱まり、賜支河首を越えて遠く発羌の地に依った。
  • ほどなく病死し、その子が降ったが、戸数は数十にも満たなかった。

荊州の水害

  • 荊州で長雨と水害があった。

十一月 辺郡の孝廉選挙制度改定

  • 十一月丙辰、皇帝は詔を下し、幽州・并州・涼州では戸口が少ないのに辺役が重く、また若くして修養した良吏の進路が狭いとして、縁辺郡の孝廉推薦数を戸口に応じて緩和・調整した。
  • 十万戸以上は毎年一人、十万戸未満は二年に一人、五万戸以下は三年に一人の推薦とした。

鮮卑の侵入

  • 鮮卑が右北平を寇し、さらに漁陽へ侵入したが、漁陽太守がこれを破った。

司徒退任と巫蛮反乱

  • 戊辰、司徒呂蓋は老病を理由に致仕した。
  • 巫蛮の許聖は、郡の徴税が不公平だとして怨みを抱き、反乱した。
  • 辛卯、南郡を寇した。