資治通鑑漢紀四十 孝和皇帝下 永元 十四年 102年

春 安定の降羌反乱

  • 安定の降羌である燒何種が反乱したが、郡兵がこれを撃滅した。

西海郡再建の建議

  • このころ、西海と大小榆谷の周辺には羌寇がいなくなっていた。
  • 隃麋相曹鳳が上言し、建武以来、羌の動乱はつねに燒当種から起こってきたのは、大小榆谷が肥沃で、西海の魚塩の利があり、大河を天然の要害とし、塞にも近く、諸種を扇動しやすかったからだと論じた。
  • 今は迷唐らが衰えて発羌に逃れているので、この機を逃さず西海郡県を再建し、二榆を押さえ、屯田を広げ、羌胡相互の連絡路を断ち、辺境の糧運も軽減すべきだと提案した。
  • 皇帝はこれに従い、旧西海郡を修復し、金城西部都尉を移して守らせ、曹鳳をその都尉に任じて龍耆に屯させた。
  • さらに屯田を拡張して黄河沿いに三十四部の屯を並べた。その事業はほぼ成功しかけたが、のち永初年間の諸羌反乱で廃止された。

三月 辟雍親臨

  • 三月戊辰、辟雍に臨み、饗射を行い、天下に大赦をした。

夏四月 巫蛮平定

  • 使者に命じて荊州兵一万余を督し、道を分けて巫蛮の許聖らを討たせた。
  • 大破したため、許聖らは降伏を願い、すべて江夏へ移住させられた。

陰皇后の廃位

  • 陰皇后は嫉妬深く、次第に寵を失っていた。
  • その外祖母鄧朱が宮中に出入りする中で、皇后が鄧朱とともに巫蠱の者を使っているとの告発があった。
  • 皇帝は中常侍張慎と尚書陳褒に調査させ、大逆無道として弾劾した。
  • 鄧朱の子の奉・毅、皇后の弟輔は獄中で拷問の末に死んだ。
  • 六月辛卯、陰皇后は廃されて桐宮へ移され、憂死した。
  • 父の特進陰綱は自殺し、弟の陰軼・陰敞、および鄧朱一族は日南の比景へ流された。

秋七月 常山王の交替

  • 壬子、常山殤王側が死去し、子がなかったため、その兄防の子侯章を常山王に立てた。

三州大水

  • 三州で大水があった。

班超の帰還願い

  • 班超は長く絶域にあり、老いて郷土を思い、上書して帰還を願った。酒泉にまで戻れなくても、玉門関に生きて入れればよいとまで訴えた。
  • さらに子班勇を、安息の献物に伴わせて入塞させ、自分の存命中に子に中土を見せたいと願ったが、朝廷は長く返答しなかった。
  • そこで妹の班昭が上書し、蛮夷は老いた将を侮り、班超がこのまま現地で死ねば、西域に奸宄の心が生じ、国家累代の功を損なうと訴えた。
  • 皇帝はその言葉に動かされ、班超を徴還した。
  • 八月、班超は洛陽に着き、射声校尉に任ぜられた。
  • 九月、死去した。

任尚への班超の忠告

  • 班超の後任として、戊己校尉任尚が都護となった。
  • 任尚は、三十余年辺境にいた班超に教えを求めたが、班超は、塞外の吏士は多くが罪人や流人であり、蛮夷も鳥獣に近い心を持つので、厳しすぎれば保てず、あまり細かく察しすぎても和を失うと述べた。
  • 小過はゆるし、大綱を総べるだけでよいと勧めた。
  • しかし任尚は、これを平凡な話だと軽く見た。のちに果たして辺境の和を失い、班超の言葉どおりとなった。

鄧綏の徳行

  • かつて太傅鄧禹は、自分は大軍を率いてもみだりに人を殺さなかったから、子孫に必ず興る者が出ると言っていた。
  • 護羌校尉鄧訓の娘鄧綏は、孝友にして書伝を好み、昼は婦功を修め、夜は経典を読んだので、家人は彼女を「諸生」と呼んだ。
  • 叔父鄧陔は、鄧訓が石臼河を修築して毎年数千人を救った徳によって、家に福が及ぶだろうと語っていた。
  • 鄧綏はのちに選ばれて入宮し、貴人となった。
  • 恭敬で慎み深く、行動に法度があり、陰皇后に仕えるにも、同列をいたわるにも、つねに自分を抑えて人に譲った。
  • 宮人や下役にまで恩情をかけ、皇帝はその徳を深く嘉した。
  • 病の時にはその母や兄弟の入宮を特別に許したが、貴人は、宮禁に外家が長居するのは上には皇帝の私幸のそしり、下には自分への貪欲のそしりを招くとして辞退した。
  • 宴会でも他の后妃が華美に装うなか、鄧貴人だけは質素を守り、衣の色が皇后と同じならすぐ着替えた。
  • 同時に進見するときは正座せず並び控えめに立ち、歩くときも身をかがめた。
  • 皇帝の質問にも皇后より先に答えず、陰后が体格のため礼を失して左右が笑っても、鄧貴人だけは心を痛めてその欠点をかばった。
  • 皇帝はその配慮に感嘆し、後に陰后の寵が衰えても、鄧貴人は侍寝を病で辞したり、皇子が夭折しがちなことを憂えて才人の進御をすすめたりして、自らを立てなかった。
  • 陰后はこの徳望の高まりをひどく憎んだ。
  • 皇帝が重病となった時、陰后はひそかに、もし自分の思いどおりになるなら鄧氏に遺類を残さぬと言った。
  • 鄧貴人はこれを聞いて涙を流し、自ら死んで皇帝への恩に報い、一族への禍を解き、人豕のそしりを陰氏に受けさせないようにしようとして毒を飲もうとしたが、宮人趙玉に強く止められた。
  • 翌日、皇帝の病は本当に快癒した。

冬十月 鄧綏が皇后に

  • 陰后の廃位後、皇帝は鄧貴人を皇后に立てようとしたが、鄧氏は重病を称して強く辞退した。
  • 冬十月辛卯、ついに鄧氏を皇后に立てた。辞譲してやまなかったが、やむなく即位した。
  • 郡国から皇后宮への献上はすべて禁じ、歳時には紙墨を供するだけとした。
  • 皇帝が鄧氏一族に官爵を授けようとしても、皇后は哀請して辞退したため、兄の鄧騭も和帝の世には虎賁中郎将を越えなかった。

年末の人事と学制改革

  • 丁酉、司空巣堪を罷めた。
  • 十一月癸卯、大司農徐防を司空に任じた。
  • 徐防は上疏し、博士十四家を立て甲乙科で学を奨励してきたのに、近ごろ太学の試験では家法を修めず、自説だけで答案を書き、相互にかばい合い、策試のたびに争論が起こると批判した。
  • 孔子の「述べて作らず」「史の闕文に及ぶ」との教えを引き、章句と師法に従い、五十問を設けて解釈の多さ・典拠の明らかさで優劣を定めるよう求めた。
  • 皇帝はこれを採用した。

鄭衆の封侯

  • この年、大長秋鄭衆を鄛郷侯に封じた。
  • 宦官の封侯はここに始まる。