資治通鑑漢紀三十八 肅宗孝章皇帝上 建初 七年 82年
春正月 諸王来朝
- 春正月、沛王輔・済南王康・東平王蒼・中山王焉・東海王政・琅邪王宇が来朝した。
- 沛・済南・東平・中山の四王には、拝礼の際に名を唱えず、殿上に上がってから拝する特別の礼が与えられた。
- 皇帝は宮中に入るたび輦で迎え、省閣まで来て初めて降ろし、自ら席を立って応接し、皇后も内庭で拝して、極めて優遇した。
東平王蒼の帰国
- 三月、大鴻臚が諸王の帰国を奏上したが、皇帝はとくに東平王蒼を京師に留めた。
- しかし秋八月、酎祭が終わると有司が再び蒼の帰国を奏し、今度は許された。
- 皇帝は手ずから詔書を書き、骨肉の情は遠近で変わらないが、長らく仕えて疲れているので休ませたい、それでも大鴻臚の奏上に署名するのは忍びないほど名残惜しいと述べた。
- 車駕は祖道して涙ながらに別れ、多くの御物・車馬・財貨を賜った。
宋貴人失脚と皇太子交替
- 明徳太后の時代、扶風宋氏・楊氏の娘が貴人となり、そのうち大貴人が皇太子慶を生んでいた。梁松の弟梁竦の娘二人も貴人となり、小貴人が皇子肇を生んだ。
- 竇皇后には子がなく、皇子肇を養子とした。太后の存命中は宋貴人が庇護されていたが、太后が崩ずると、竇皇后は母の沘陽公主とともに宋氏を陥れようとした。
- 外では兄弟に宋氏の過失探しをさせ、内では御者に監視させた。
- 宋貴人が病中に兎肉を求めさせたことを、厭勝の術のためだと誣告し、皇太子慶を承禄観に移した。
- 夏六月甲寅、詔して、皇太子慶は常軌を失するところがあり宗廟を奉ずるに適さないとして、清河王に廃した。
- 一方、皇子肇は皇后が養い導いたとして皇太子に立てられた。
- 宋貴人姉妹は丙舎に移され、小黄門蔡倫の取り調べを受けて、いずれも毒を飲んで自殺した。父の議郎宋楊は本郡へ帰された。
- 慶は幼かったが、宋氏に言及すれば禍を招くと知って口に出さず、皇帝はかえってこれを憐れみ、皇后に命じて衣服を太子と同格にさせた。皇太子肇もまた慶を親愛し、寝食や乗輿を共にした。
諸王の移封と行幸
- 己未、広平王羨を西平王に移した。
- 九月甲戌、皇帝は偃師に幸し、巻津を渡って河内に入り、軽装で行幸するので道路・橋梁の修繕や遠方からの迎送、刺探を禁じ、煩擾を避けよと詔した。
- 己酉、さらに鄴に進み、辛卯に還宮した。
- 冬十月癸丑、長安へ行幸し、蕭何の末孫熊を鄼侯に封じた。
- さらに槐里・岐山・長平・池陽宮・高陵などを巡り、十二月丁亥に帰還した。
東平王蒼の病
- 東平王蒼が病むと、名医と小黄門を急派し、使者の往来は絶えず、驛馬で千里を通じてその容体を問い続けた。