資治通鑑漢紀三十八 肅宗孝章皇帝上 建初 八年 83年

春正月 東平王蒼の死

  • 春正月壬辰、東平王蒼が薨じた。
  • 皇帝は中傅に命じて、建武以来の蒼の章奏を封じて墓に納めさせた。
  • 大鴻臚に持節して葬儀を監させ、四姓小侯や諸国の王・公主らもみな会葬させた。

夏六月・冬十二月 北匈奴と行幸

  • 夏六月、北匈奴の三木楼訾大人稽留斯らが三万余人を率いて五原塞に来降した。
  • 冬十二月甲午、皇帝は陳留・梁国・淮陽・潁陽へ行幸し、戊申に帰宮した。

梁氏への打撃

  • 皇太子肇が立てられた際、梁氏がひそかに喜び合ったことを、竇氏は不快に思った。
  • 竇皇后は外家の名声を独占しようとして梁貴人姉妹を忌み、たびたび皇帝に讒言したため、次第に皇帝も梁氏を疎んじるようになった。
  • この年、竇氏は匿名文書を用いて梁竦を悪逆の罪に陥れ、梁竦は獄中で死んだ。家族は九真に流された。
  • 梁貴人姉妹も憂死し、その供述が梁松の妻である舞陰公主に及んだため、公主も新城へ流された。

馬氏の没落

  • 順陽侯馬廖は謹慎で篤実だったが、性格は寛く、子弟を十分に統制できなかった。そのため一族は驕奢に流れた。
  • 校書郎楊終は手紙で、若い黄門郎たちが軽薄な客と結び、将来寒心すべき事態を招くと戒めたが、馬廖は従えなかった。
  • 馬防・馬光兄弟は莫大な財産で壮大な邸宅を築き、食客を数百人抱え、馬防は牧馬を増やして羌胡からも収奪した。
  • 皇帝はこれを好まず、しばしば譴責して権勢を抑えた。
  • ついに馬廖の子馬豫が歩兵校尉として怨望を記した投書をしたことから、有司が馬防・馬光兄弟の奢侈・僭越を合わせて奏上し、いずれも免官の上、封国へ帰された。
  • ただし皇帝は、四時の陵廟祭祀に外戚の助祭者がいなくなるのは忍びないとして、許侯馬光だけは京師に留めて田廬を守らせた。
  • 馬光は兄馬防よりは慎重であったため、のちに特進へ復した。
  • 馬豫は馬廖に従って封国へ帰る途中、拷問を受けて死に、後に馬廖は再び京師へ召し返された。

竇氏の台頭と第五倫の諫言

  • 馬氏が失脚すると、竇氏はいよいよ盛んとなった。
  • 皇后の兄竇憲は侍中・虎賁中郎将、弟竇篤は黄門侍郎となり、いずれも宮中に侍って賞賜を重ね、賓客との交際を好んだ。
  • 司空第五倫は、竇憲は若く志もよいが、周囲に出入りするのは罪過ある者や禁錮された者が多く、驕佚のもとになると上疏した。
  • とくに、外戚の力によって失脚者を再起させるような風聞が都で語られているとして、中宮から厳しく竇憲らを戒め、門を閉ざして自守させるべきだと求めた。

竇憲の沁水公主田園強奪

  • 竇憲は身分を恃み、沁水公主の田園を安く奪い取ろうとした。公主は畏れて争えなかった。
  • 後日、皇帝がその園を通りかかって竇憲に問いただすと、竇憲は側近に口止めして答えを封じたが、やがて事実が露見した。
  • 皇帝は激怒し、趙高の「鹿を指して馬となす」に等しいと厳しく叱責した。
  • 永平年間には陰氏・鄧氏の外戚同士を相互監察させていたため豪戚も違法を犯しにくかったのに、いまや公主でさえ圧迫されるのだから庶民はなおさらだ、と言い切った。
  • 竇憲は大いに恐れ、皇后も服制を下げて謝罪し、ようやく赦された。田は公主に返還されたが、罪に処されることはなく、重任も与えられなかった。
  • 司馬光はこの件について、君主が臣下の奸を知りながら罰しなければ、知らぬ場合よりも弊害が大きいと論じている。

周䊸の洛陽令時代

  • 下邳の周䊸が洛陽令になると、着任早々に「大姓」を尋ね、役人が里の豪族名を挙げると、そんな者ではなく馬氏・竇氏のような貴戚を問うたのだと叱った。
  • 役人たちはその意向を忖度して厳しい取り締まりに走り、貴戚は恐れ慎み、京師は粛然となった。
  • 竇篤が夜に止姦亭へ来た時、亭長の霍延は剣を抜いて面前に突きつけ、口汚く罵った。
  • 竇篤がこれを上表すると、詔獄に送られて数日後に赦された。

班超と李邑

  • 皇帝は班超を将兵長史に任じ、徐幹を軍司馬とした。
  • 別に衛候の李邑を遣わし、烏孫の使者を護送させた。
  • 李邑は于窴で、龜兹が疏勒を攻めていることを知ると恐れて進まず、西域経略は成功しないと上書し、さらに班超は妻子を愛して外国で安逸をむさぼり、内顧の心がないと誹った。
  • 班超はこれを聞いて、曾参ですら三度の讒言を受けたではないかと嘆き、自ら妻を遠ざけて忠誠を示した。
  • 皇帝は班超の忠を知っていたので、李邑を叱責し、むしろ班超の指揮下で働かせるよう命じた。
  • 徐幹が、李邑は以前に班超をそしったのだから留め置いて他人に使者護送を命ずべきだと言うと、班超は、私怨で人を留めるのは忠臣の道ではないとして、李邑に侍子を護送させて帰京させた。

鄭弘の財政・交通改革

  • 侍中の鄭弘を大司農とした。
  • 従来、交趾七郡の貢献は東冶から海路で運ばれ、風波の難が多かった。
  • 鄭弘は零陵・桂陽を通る嶠道を開いて陸路を整備し、以後これが常路となった。
  • 在任二年で巨額を節減し、旱魃と辺境警備で民食が足りぬ一方、府庫に蓄えが多いのを見て、貢献と徭役の削減を奏上し、皇帝はこれに従った。