資治通鑑漢紀三十七 顯宗孝明皇帝 永平 十二年 69年
春:哀牢の内附
- 哀牢王柳貌が五万余戸を率いて内附した。
- その地に哀牢・博南の二県を置いた。
- これにより初めて博南山を越え、蘭倉水を渡る交通路が開かれた。旅人はそこを苦しみ、「漢の徳は広く、服さぬ者を開き、蘭倉を渡ってもはや他国の民ではなくなった」と歌った。
夏秋:汴渠の大修築
- かつて平帝の時に河と汴の堤が決壊したが、長く修復されなかった。建武十年に光武帝が修理しようとした際には、浚儀令楽俊が戦後の民力疲弊を理由に反対して中止されていた。
- その後、汴水の東方侵食は日ごとに拡大し、兗州・豫州の民は、官がいつも他の役ばかり興し、急務である治水を先にしないと不満を募らせた。
- たまたま楽浪の王景が治水に長けるとして推薦されたため、四月、数十万の卒を発し、王景と将作謁者王呉に命じて汴渠の堤を修築させた。
- 滎陽から東は千乗の海口まで千余里に及び、十里ごとに水門を設けて水流を融通させたため、再び決壊漏水の心配がなくなった。
- 王景は費用を減らすよう努めたが、それでも総計は百億に達した。
秋:司空交代と天下太平
- 七月、司空伏恭が罷め、大司農牟融が司空となった。
- 当時、天下は安定し、人々に大きな徭役もなく、収穫はたびたび豊かで、民は富み、粟一斛は三十銭、牛羊は野に満ちるほどであった。