資治通鑑漢紀三十七 顯宗孝明皇帝 永平 八年 65年

春:三公の異動

  • 正月、司徒范遷が死去した。
  • 三月、太尉虞延が司徒となり、衛尉趙憙が太尉の職務を代行した。

鄭衆の北匈奴使節

  • 越騎司馬の鄭衆が北匈奴へ使いした。
  • 単于は鄭衆に拝礼を強いたが、鄭衆は屈せず、匈奴側は彼を囲んで水火も与えなかった。
  • それでも鄭衆は刀を抜いて節義を誓ったため、単于はついに恐れて強制をやめ、改めて使者をつけて都へ送り返した。

度遼営の設置

  • 以前、大司農耿国は、五原に度遼将軍を置いて南匈奴の逃亡を防ぐよう建議したが、朝廷は用いなかった。
  • ところが南匈奴の須卜骨都侯らは、漢が北匈奴と通交したことを知って不満を抱き、ひそかに北匈奴へ使いを出して迎兵を求めた。
  • 鄭衆は帰路に異変を疑って探り、実際に須卜氏の使者を捕らえたため、北と南の匈奴の通謀を防ぐため、新たな大将を置くよう上奏した。
  • これにより初めて度遼営が設けられ、中郎将呉棠が度遼将軍の事務を代行し、黎陽虎牙営の兵を率いて五原の曼柏に駐屯した。

秋冬:災害と囚徒募集

  • 秋、十四郡国で大水害が起きた。
  • 十月、北宮で火災があった。
  • 丙子の日、死罪の繋囚を度遼営へ募り、逃亡中の罪人にも罪の軽重に応じて贖罪を許した。

楚王英と仏教信仰

  • 楚王英は黄の絹や白い絹布を国相に差し出し、自分は藩王として過ちが重なったので、これをもって罪をあがないたいと申し出た。
  • 国相が朝廷に報告すると、帝は、楚王は黄老の微言を誦し、さらに仏の仁慈を尊び、三か月斎戒して神に誓っているのだから、何を疑い、何を悔いる必要があるのかと答えた。
  • そして、その贖いの品は返し、在家信者や沙門たちの供養に回すよう命じた。

仏教伝来の説明

  • 帝は、西域に仏という神がいると聞き、天竺に使者を送ってその教えを求めた。経典と沙門がもたらされると、その教えはおおむね虚無を旨とし、慈悲と不殺生を重んじ、人の死後も精神は滅びず、善悪に応じて報いを受けると説くものと理解された。
  • そのため、精神を修めてついには仏となることを理想とし、広大で人を勧誘しやすい教説をもって俗人を導いた。道に精通した者は沙門と呼ばれた。
  • こうして中国で初めてその教えが広まり、像が描かれるようになったが、王侯貴人の中では楚王英がもっとも早くこれを好んだ。

晦日の食と帝の自責

  • 壬寅の晦日に日食が皆既となった。
  • 帝は百官に率直な意見を求め、群臣はそれぞれ封事を上げて政事の得失を論じた。
  • 帝はそれらを読んで深く自らの過ちを認め、百官にも示したうえで、民の冤抑をさばけず、狡猾な吏を禁じえず、軽々しく民力を用い、宮殿修築や外出にも節がなかったと自責した。

鄭衆の再諫

  • 北匈奴は朝貢の使者を送ってきても、侵掠をやめなかった。朝廷はその返礼使を送ろうとしたが、鄭衆はこれに反対した。
  • 彼は、北単于の狙いは漢の使者を引き寄せて南単于を離反させ、西域諸国の心を固め、さらに漢が和親したと誇示して周辺を揺さぶることにあると論じた。
  • しかし帝は聞き入れず、再び鄭衆を派遣しようとした。
  • 鄭衆は、自分は前回も匈奴に拝礼せず囲まれた、今回は大漢の節を持って毛皮の民に一人拝することには耐えられず、漢の威を損なうと重ねて上書した。
  • それでも許されず、道中からも繰り返し上書して争ったため、ついには呼び戻されて廷尉に繋がれた。恩赦で帰宅したのち、帝は匈奴使から彼が礼を争った経緯を聞いて、その剛直を知り、のちに軍司馬として再起用した。