資治通鑑漢紀三十七 顯宗孝明皇帝 永平 七年 64年
春:陰太后の崩御
- 正月、皇太后陰氏が崩じた。
- 二月、光烈皇后として葬られた。後漢で皇后に帝諡に加えて一字を添える形式は、この陰后から始まった。
北匈奴との互市と宋均の任用
- 北匈奴はなお強盛で、たびたび辺境を侵したが、使者を送って互市を求めてきた。
- 帝は交易を許せば往来が生まれ、侵寇もやむのではないかと期待してこれを許した。
- また東海相の宋均を尚書令に任じた。
宋均の九江統治
- 宋均はかつて九江太守であった時、五日に一度だけ政務を聴き、掾史を減らし、督郵の役所も閉じて、属県に余計な干渉をしなかった。民は安心して生業に従った。
- 九江では虎の害が多く、従来は檻や落とし穴を設けても被害が絶えなかった。
- 宋均は、真の問題は貪残な官吏にあり、獣狩りに労力を費やすことではないとして、属県に対し奸貪を退け忠善を進めるよう命じ、捕獲設備を撤去させた。
- その後、虎の害はなくなったという。
宋均の政治観
- 帝は宋均の名声を聞いて枢機に任じた。
- 宋均は、国家は文法に詳しい吏や廉潔な官を重んじて奸を防げると考えがちだが、文吏は欺瞞に長け、廉吏は自分を清く保つだけで、民の救済には足りないと見ていた。
- ただし時勢はまだ変えがたく、いずれ自ら苦労してからでなければ言えないと考えていたが、実際に建言する前に司隷校尉へ転じた。
- のちに帝はその言葉を聞き、宋均の見識を高く評価した。