資治通鑑漢紀三十七 顯宗孝明皇帝 永平 九年 66年
夏:地方官の考課
- 四月、司隷校尉と州部刺史に詔し、毎年、墨綬を帯びる地方長官のうち在任三年以上で治績のとくに優れた者を一人ずつ推薦し、また著しく不治の者も報告させることにした。
豊年と皇子への称号
- この年は大豊作であった。
- 皇子恭に霊寿王、党に重熹王という称号が与えられたが、まだ国邑は与えられなかった。
学問奨励
- 帝は儒学を重んじ、皇太子・諸王・列侯・大臣の子弟・功臣の子孫に至るまで経書を学ばせた。
- さらに樊氏・郭氏・陰氏・馬氏の外戚の子弟のために南宮に学校を設け、四姓小侯と称した。
- 五経博士級の師を置き、優れた者を選んで教授させ、期門・羽林の武官にも『孝経』の章句を学ばせた。
- 匈奴もまた子弟を送り込んで学ばせた。
広陵王荆の再度の不軌
- 広陵王荆は再び相人を呼び、自分は先帝に容貌が似ており、先帝が三十で天下を得たのだから、自分も三十になった今こそ挙兵できるのではないかと問うた。
- 相人がこれを役所に告発すると、荆は恐れて自ら獄に繋がれた。
- 帝は恩を加えて厳しい追及を避け、荆には今後、吏民を臣属させず、従来どおり租税だけを受けるよう命じ、相と中尉に厳重な監視をさせた。
- しかし荆はさらに巫を使って祭祀・呪詛を行ったため、長水校尉樊鯈らが取り調べた。
- 有司は死刑を請うたが、帝は弟だからといって誅そうとするのか、もし我が子でも同じことを言うのかと怒った。
- これに対し樊鯈は、天下は高帝の天下であって皇帝個人のものではなく、『春秋』の義では君や親であっても逆を謀れば誅すべきだと述べた。帝はその言をよしとした。