資治通鑑漢紀三十五 世祖光武皇帝中之下 建武二十年 44年

春二月 帰京

  • 戊子、車駕は宮中に還った。

夏四月 戴渉死去と竇融罷免

  • 庚辰、大司徒戴渉は、故太倉令奚渉の罪を故意に重くした件で下獄され、死んだ。
  • 光武帝は三公が続けて職を全うできぬのを重く見て、大司空竇融も策免した。

吳漢の死

  • 広平忠侯吳漢が病篤くなると、光武帝はみずから臨んで遺言を問うた。吳漢は、自分には見識がないが、ただ陛下には軽々しく赦しを行わぬよう願うと答えた。
  • 五月辛亥、吳漢が薨じた。光武帝は霍光に準じる礼で送葬するよう命じた。
  • 吳漢は剛強で、出征のたびに光武帝が不安がると、常に片足を進めるようにして立ち、諸将が戦況不利で狼狽しても、平然として武器を整え兵を励ました。光武帝が人を遣わして大司馬が何をしているか見させると、攻戦の準備をしているとの報告が返り、「吳公は頼もしく、一国の敵にあたる威がある」と感嘆した。
  • 出征の際は朝に詔を受ければ夕には出発し、装束に日を費やさなかった。朝廷では細心で質朴、妻子が後方で田宅を買い増したと知ると、軍中の吏士が足りないのに何のための田産かと叱り、すべて兄弟や外家に分け与えた。こうして功名を全うした。

匈奴侵寇と陰興への顧命

  • 匈奴は上党・天水を侵し、ついには扶風にまで至った。
  • 光武帝は風眩の病に苦しみ、一時は病勢が甚だしく、陰興に侍中の職を帯びさせて雲台広室で顧命を授けた。
  • しかし病が癒えると陰興を召して会い、吳漢の後任として大司馬にしようとした。陰興は涙を流して固辞し、自分が受ければ聖徳を損なうと述べたので、光武帝はその誠に感じて取りやめた。

張湛の辞退と新三公

  • 太子太傅張湛は、郭后廃位の後から病と称して朝に出ていなかった。光武帝は無理に起こして司徒にしようとしたが、張湛は病篤く復職できないとして固辞し、そのまま罷めた。
  • 六月庚寅、広漢太守で河内の蔡茂を大司徒とし、太僕朱浮を大司空とした。
  • 壬辰、左中郎将劉隆を驃騎将軍として、大司馬の事を行わせた。

郭氏一族への配慮

  • 乙未、中山王輔を沛王へ移封した。
  • 郭況を大鴻臚に任じ、光武帝はしばしばその邸を訪れて、金帛の賞賜を惜しまなかった。京師では郭況の家を「金穴」と呼んだ。これは郭后への配慮によるものであった。

秋九月 馬援の志

  • 馬援は交阯から帰り、平陵の孟冀がこれを出迎えて慰労した。
  • 馬援は、いま匈奴・烏桓がなお北辺を騒がせているので、自分から出撃を願いたい、男児たるものは辺野に死に、馬革に裹んで帰葬されるべきで、寝台の上で女や子どもの手にかかって死ぬものではないと語った。
  • 孟冀は、それこそ烈士のあるべき姿だと応じた。

冬十月・十二月 東方巡幸と馬援出屯

  • 甲午、光武帝は魯・東海・楚・沛国へ行幸した。
  • 十二月、匈奴が天水・扶風・上党を侵した。
  • 壬寅、車駕は宮中へ帰還した。
  • 馬援がみずから匈奴撃退を請うと、光武帝はこれを許し、襄国に出屯させた。
  • 百官が道で見送る中、馬援は黄門郎の梁松と竇固に、富貴にある者は再び賤しくなれる余地を残しておくべきで、お前たちのような家柄の者は賤しさに戻れぬのだから、高位にあっては自らを堅く保てと戒めた。梁松は梁統の子、竇固は竇友の子である。
  • 劉尚は棟蠶らと連戦して、すべてこれを破った。