資治通鑑漢紀三十五 世祖光武皇帝中之下 建武二十一年 45年

春正月 西南夷平定

  • 劉尚は棟蠶を追って不韋に至り、これを斬った。西南の諸夷もみな平定された。

烏桓・鮮卑の脅威

  • 烏桓は匈奴・鮮卑と連兵して寇し、代郡以東はとりわけ烏桓の被害が大きかった。
  • 彼らは塞に近く住み、朝に穹廬を出れば夕には城郭に至るほどで、代郡・上谷・漁陽・右北平・遼西の五郡の民は家ごとにその害を受けた。郡県は破壊され、百姓は流亡し、辺境は人の跡もないほど荒れた。

秋八月 馬援の築塞と烏桓討伐

  • 光武帝は馬援と謁者を分けて堡塞を築かせ、郡県を再興し、時には太守・令長だけを空置してでも人民を呼び戻そうとした。
  • 上谷塞外の白山にいた烏桓は最も強盛だったので、馬援は三千騎を率いてこれを撃ったが、戦果なく引き返した。

祭肜、鮮卑を大破

  • 鮮卑一万余騎が遼東を侵すと、遼東太守祭肜は数千人で迎撃し、自ら甲を着て陣中へ突入した。敵は大敗し、水に落ちて死ぬ者が半ばを超えた。
  • 祭肜はさらに塞外まで追撃し、敵は急いで武器を捨て、裸身で四散した。以後、鮮卑は祭肜を恐れて再び塞を窺わなかった。

冬 匈奴侵入と西域の歎願

  • 冬、匈奴が上谷・中山を侵した。
  • 莎車王賢はしだいに驕横になり、西域諸国を兼并しようとしてたびたび攻め、重い賦税を求めたので、諸国は愁えおののいた。
  • 車師前王・鄯善・焉耆など十八国は、子弟を人質として入侍させ、珍宝を献じたうえ、面会の折には涙を流して都護の再置を願った。
  • しかし光武帝は、中国はなお初定で北辺も服していないとして、その侍子をすべて返し、賞賜だけを厚く与えた。
  • 諸国は都護が来ないまま侍子も帰されると大いに不安となり、敦煌太守に檄を送り、侍子だけでも留めて、漢がまもなく都護を出すように見せかけ、莎車を牽制してほしいと願った。
  • 裴遵がその事情を奏上すると、光武帝はこれを許した。