資治通鑑漢紀三十五 世祖光武皇帝中之下 建武十九年 43年

春正月 宗廟整理と中宗追尊

  • 庚子、宣帝を追尊して中宗とし、昭帝・元帝を太廟に祀った。
  • 成帝・哀帝・平帝は長安に、舂陵節侯以下の先祖は章陵に祀られ、それぞれ太守・令長が侍祠を行った。

馬援、徴側・徴貳を斬る

  • 馬援はついに徴側・徴貳を斬った。

原武の妖賊討伐

  • 妖賊の単臣・傅鎮らが相集まって原武城に入り、将軍を自称した。朝廷は太中大夫臧宮に兵を授けて包囲させたが、幾度攻めても落ちず、士卒に死傷が多く出た。
  • 光武帝が公卿・諸侯王に方策を問うと、多くは懸賞を重くすべきだと答えたが、東海王陽だけは、妖巫の類は長く立つものではなく、城中には逃げたい者も多いはずだから、包囲を少し緩めて逃散させればよいと進言した。
  • 光武帝はこれに従い、臧宮に包囲を解いて圧迫を緩めさせた。すると賊衆は分散し、夏四月に原武を陥として単臣・傅鎮らを斬った。

馬援、嶠南を平定

  • 馬援はさらに徴側の残党都陽らを攻め、居風に至って降した。これで嶠南はことごとく平定された。
  • 馬援は越人に旧来の制度を申明して統制し、その後は駱越の人々も「馬将軍の故事」としてこれを守り行うようになった。

閏月 趙・斉・魯三公を王に進める

  • 戊申、趙・斉・魯の三公爵をみな王に進めた。

太子彊の辞位願いと劉陽立太子

  • 郭后が廃されてから、太子彊は自分の立場に不安を抱くようになった。郅惲は、長く疑わしい位にあるのは上に対して不孝、下には危殆に近いので、位を辞して母に奉養するのがよいと説いた。
  • 太子彊はこれに従い、しばしば近臣や諸王を通じて、藩国に退いて仕えたいと真情を述べた。光武帝は忍び難く、数年にわたって決断を延ばした。
  • 六月戊申、春秋の義では子を立てるには母の貴賤を重んずるとして、皇后の子である東海王陽こそ大統を継ぐべきであり、太子彊もまた謙退して藩国を願っていると詔した。
  • そこで彊を東海王とし、陽を皇太子に立て、名を荘と改めた。

論評と陰識・陰興

  • 袁宏は、太子の位は宗統を重んじ人心を一にするためのもので、大悪がなければ移すべきでないから、この更易は正道を失ったものだと論じる。
  • ただし、東海王となった彊の謙恭はいっそう明らかとなり、後の明帝も兄弟への友愛を尽くしたため、父子兄弟の至情に隔てはなかったとして、高く評価している。
  • 光武帝は、太子の母方の叔父である陰識を執金吾のまま、陰興を衛尉として、太子を輔導させた。
  • 陰識は忠厚で、宮中では率直に正論を述べたが、賓客との私語では国事に及ばなかった。光武帝はその節度を尊び、貴戚を戒める手本としてたびたび引き合いに出した。
  • 陰興は礼賢と施しを好んだが、門に遊侠を集めることはなく、仲のよい友人にも私財を与えるだけで推薦はしなかったため、世に忠実と称えられた。

太学・太子教育

  • 光武帝は沛国の桓栄を議郎にして、太子に経書を授けさせた。ときに自ら太学に幸し、博士たちを前に経義を論難させたが、桓栄は礼をもって相手を立てながら経義を明らかにし、勝ちを争わなかったので、儒者に及ぶ者がなかった。光武帝は厚く賞賜し、諸生に雅歌・撃磬をさせ、終日楽しんだ。
  • また左中郎将の鍾興に、皇太子と宗室諸侯へ『春秋』を授けさせた。関内侯を賜ろうとしたが、鍾興は、自分の師である少府丁恭こそ功あるべきだとして辞退した。そこで光武帝は丁恭を封じ、鍾興は固く受封を辞した。

董宣と湖陽公主

  • 陳留の董宣が洛陽令であったとき、湖陽公主の家の奴僕が白昼に人を殺して主家に匿われたため、吏は捕らえられなかった。
  • 公主が外出した際、その奴が車に驂乗していたので、董宣は夏門亭で待ち受け、馬を叩いて車を止め、地面に刀で線を引きながら公主の過失を大声で数え立て、その奴を叱り下ろしてその場で打ち殺した。
  • 公主は帰宮して訴え、光武帝は大いに怒って董宣を召し、杖殺そうとした。董宣は、一言述べてから死にたいと言い、陛下は聖徳で中興したのに奴僕の殺人を放置してどうして天下を治められるのか、自分は杖を待たず自殺すると言って柱に頭を打ちつけ、血を顔に浴びた。
  • 光武帝は黄門に支えさせて、公主へ叩頭して謝罪させようとしたが、董宣は両手を地について拒み、頭を下げなかった。
  • 公主は、文叔が白衣であった頃には亡命人や死罪人を匿っても吏は門前に来なかったのに、今や天子となって一人の命令も通らぬのかと言った。
  • 光武帝は笑って、天子は白衣と同じではないと言い、董宣を「強項令」と呼んで出させ、銭三十万を賜った。董宣はそれをすべて吏たちに分け与えたので、以後、豪強をよく撃ち、京師は震えた。

九月 南陽・汝南巡幸

  • 壬申、光武帝は南陽へ行幸し、さらに汝南へ進んだ。
  • 南頓県の官舎で酒宴を開き、官民に南頓の田租一年分を免じた。父老たちは、先帝がここに長く住まわれ、陛下も官舎を覚えておられるたびに厚恩を施されるのだから、十年免租してほしいと願った。
  • 光武帝は、天下は重い器で日々務まるか恐れているのに、どうして千年先のことまで約束できようかと笑い、さらに一年分を加えて免じた。
  • さらに淮陽・梁・沛へ進んだ。

西南夷の乱の兆し

  • 西南夷の棟蠶が反乱を起こして長吏を殺したため、武威将軍劉尚に討たせた。
  • 道中の越巂では卭穀王任貴が、劉尚が南方平定後に法を自分へも及ぼすことを恐れ、軍を集めて営を築き、毒酒を多く醸してまず軍を労い、その隙に襲うつもりであった。
  • 劉尚はその企てを知り、兵を分けて先に卭都を押さえ、任貴を襲ってこれを誅した。