資治通鑑漢紀三十五 世祖光武皇帝中之下 建武十八年 42年
二月 蜀郡史歆の反乱
- 蜀郡の守将史歆が反乱を起こし、太守張穆を攻めた。張穆は城壁を越えて宕渠へ逃れ、楊偉らが挙兵して史歆に呼応した。
- 光武帝は吳漢らに一万余人を授けて討伐に向かわせた。
甲寅 三輔方面への行幸
- 甲寅、光武帝は長安へ行幸した。
- 三月には蒲坂に赴いて后土を祀った。
馬援の南征
- 馬援は海沿いに進み、山に沿って道を切り開きながら千余里を行き、浪泊上に至った。
- 徴側らと戦って大破し、さらに禁谿まで追撃した。すると賊軍は散り散りになって逃げた。
四月・五月 帰還と盧芳再反
- 四月甲戌、車駕は宮中へ還った。
- 戊申、河内へ行幸し、戊子に還宮した。
- 五月、旱魃があった。
- 盧芳は昌平から帰ると、内心で疑い恐れ、ついにまた叛き、閔堪と数か月にわたって相争った。やがて匈奴が数百騎を送って迎えたので、塞外へ出た。盧芳はそのまま匈奴の地で十余年を過ごして病死した。
吳漢、蜀中の反乱を鎮圧
- 吳漢は広漢・巴・蜀の三郡兵を発して成都を百余日包囲し、秋七月についにこれを陥し、史歆らを斬った。
- さらに竹木を組んだ舟で江を下って巴郡へ進むと、楊偉らは恐れて解散した。吳漢はその渠帥を誅し、党与数百家を南郡・長沙へ移して帰還した。
冬十月・十二月 章陵巡幸と州牧廃止
- 十月庚辰、光武帝は宜城に行幸し、帰途に章陵を祀った。
- 十二月、宮中へ戻った。
- この年、州牧を罷めて刺史を置き直した。
宗廟制度をめぐる議論
- 五官中郎将張純と太僕朱浮は、子が大宗に仕える場合、私親を一段下げて扱うべきだから、現行の親廟四を除き、先帝四廟に替えるべきだと奏議した。
- 一方、大司徒戴渉らは、元帝・成帝・哀帝・平帝の四廟を立てるよう奏した。
- 光武帝自身は、昭穆の順から言えば、自分は元帝の後を継ぐのが妥当だと考えていた。