資治通鑑漢紀三十五 世祖光武皇帝中之下 建武十七年 41年
春正月 趙孝公良の死と趙憙
- 趙孝公劉良が薨じた。
- 以前、懐県の豪族李子春の孫二人が殺人を犯し、懐令の趙憙が厳しく追及したため、その二人は自殺し、李子春も京師へ送られていた。貴戚が幾十人も助命を請うたが、趙憙は屈しなかった。
- 劉良が病中に光武帝の見舞いを受けた際、李子春と親交があるので命を助けてほしいと願ったが、光武帝は法律を枉げられないとして許さなかった。
- 劉良の死後、光武帝はその遺志を思って李子春を赦して出し、趙憙を平原太守に遷した。
二月 日食
四月・五月 章陵行幸
- 四月乙卯、光武帝は章陵へ行幸した。
- 五月乙卯、宮中へ戻った。
六月 臨淮懐公衡の死と皖城の妖賊
- 癸巳、臨淮懐公劉衡が薨じた。
- 妖賊李広が皖城を攻め取ったため、虎賁中郎将馬援と驃騎将軍段志が討伐に派遣された。
- 秋九月、皖城を破り、李広を斬った。
冬十月 郭后廃位と陰皇后冊立
- 郭后は寵愛が衰えてからしばしば怨み言を口にしたので、光武帝は怒った。
- 辛巳、郭氏を廃して皇后の位を去らせ、貴人陰氏を皇后に立てた。異常な事で国家の吉事ではないとして、寿を祝い慶賀することは許さなかった。
- 郅惲は、夫婦の仲は父でさえ子に対してもどうこうできず、臣が君に対して言うべきことではないが、天下に社稷を論じる声が起こらぬようよく考えてほしいとだけ諫めた。
- 光武帝は、郅惲はよく自分を推し量り、自分が偏って天下を軽んじることはないと分かっている、と評した。
皇子の進封と章陵での語らい
- 光武帝は郭后の子である右翊公輔を中山王に進め、常山郡を加えて中山国を広げた。郭后は中山太后となり、そのほかの九国公もすべて王に進められた。
- 甲申、章陵へ行幸して園廟を修め、旧宅や田廬を視察し、酒宴を催して作楽し、宗室に賞賜した。
- 酒がまわると、宗室の年長の女性たちが、文叔は若いころ誠実ではあったが人と打ち解けず、ただ柔和なだけだったのに、今ではよくここまでになったものだと語り合った。
- 光武帝はこれを聞いて大笑し、自分も天下を治めるには柔の道で行いたいと思っていると述べた。
- 十二月、章陵から帰還した。
西域都護印綬の扱い
- この年、莎車王賢は再び使者を送って貢献し、都護の設置を求めた。
- 光武帝はいったん西域都護の印綬と車旗・黄金・錦繡を与えたが、敦煌太守裴遵が、夷狄に大権を仮すべきでなく、諸国にも失望を与えると上言した。
- そこで詔して都護印綬を収め返し、代わりに「漢大将軍」の印綬を賢に与えた。
- だが使者は交換に応じず、裴遵が力ずくで取り上げたため、賢はこのことで恨みを抱いた。それでも外面では大都護を称し、諸国に檄文を送って服属させた。
鮮卑・烏桓侵入と祭肜任命
- 匈奴・鮮卑・赤山の烏桓がしばしば連合して塞内に侵入し、官民を殺傷・略奪した。鮮卑はここに至って初めて中国に通じ、侵寇を始めた。
- 光武帝は襄賁令の祭肜を遼東太守に任じた。祭肜は勇力があり、敵が来るたびに自ら先鋒となってしばしば破走させた。彼は祭遵の従弟である。
馬援、伏波将軍として交趾へ
- 徴側らの反乱が年を越えて続いたため、朝廷は長沙・合浦・交趾に車船を整え、道や橋を修し、山溪の障害を開き、糧食を蓄えさせた。
- 馬援を伏波将軍とし、扶楽侯劉隆を副将として、南方の交趾を討たせた。