資治通鑑漢紀三十五 世祖光武皇帝中之下 建武十六年 40年

春二月 徴側の反乱

  • 交趾の麊泠県の雒将の娘、徴側はたいへん勇敢で、交趾太守蘇定が法で抑えつけたことを恨んでいた。
  • 二月、徴側は妹の徴貳とともに反乱を起こし、九真・日南・合浦の蛮俚もこれに呼応した。
  • 反乱軍は六十五城を攻略し、徴側は自ら王を称し、都を麊泠に置いた。交趾刺史や諸太守は、かろうじて自らの守備を保つのみであった。

三月 日食

  • 辛丑晦、日食があった。

秋九月 度田不実の処罰を悔やむ

  • 河南尹張伋と諸郡守十余人が、検田不実の罪で下獄されて死んだ。
  • その後、光武帝はくつろいだ席で虎賁中郎将の馬援に、以前あまりにも多くの守相を殺したことを深く悔いていると語った。
  • 馬援は、罪に当たって死んだのであれば多いとは言えない、ただし死者は生き返らないと答え、光武帝は大笑した。

群盗の蜂起と朝廷の方針転換

  • 郡国では盗賊が各地で一斉に起こり、郡県が追討に向かうと散り、去ればまた屯結した。とくに青・徐・幽・冀の四州で甚だしかった。
  • 冬十月、朝廷は使者を郡国に下し、盗賊同士が互いに告発し合うことを認め、五人で一人を斬れば自分たちの罪を除くとした。役人が逗留・回避・故縦した場合も問わず、ただ捕獲の成果だけを重視した。
  • また牧守令長が、境内に盗賊がいても捕らえられぬことや、臆病で城を棄てることも罪にせず、蔽い隠す場合だけを処罰した。
  • このため互いに追捕が進み、賊は解散した。魁帥は他郡へ移して田を与え、禀食を支給して生業を立てさせた。
  • こうして後には牛馬は放したままで盗まれず、邑門も閉じないほどになった。

盧芳の請降と五銖銭復活

  • 盧芳は閔堪とともに使者を送り、降伏を願った。光武帝は盧芳を代王、閔堪を代相に立て、繒二万匹を賜り、匈奴を和合させるよう命じた。
  • 盧芳は上疏して謝し、自ら宮廷を仰ぎ望む心を述べたが、詔で翌年正月の入朝を命じられた。
  • もともと匈奴は、漢が盧芳を求めているのを聞き、財貨を得ようとして盧芳を帰降させたが、盧芳が自発的帰順の功を誇り、匈奴の思惑を言わなかったため、単于は面目を失ったとして予定の賞を出さなかった。盧芳は大いに恨み、侵寇はいよいよ激しくなった。
  • 馬援は、旧例どおり五銖銭を鋳るべきだと奏上し、光武帝はこれに従った。天下はその便益を受けた。
  • 盧芳は入朝の途上、昌平まで来たが、詔によって翌年まで待つよう命じられた。