資治通鑑漢紀三十五 世祖光武皇帝中之下 建武十五年 39年
春正月 韓歆の免官と自殺
- 辛丑、大司徒韓歆が免官となった。
- 韓歆は率直で、言うべきことを隠さなかった。ある年の不作を上前で論じた際も、天を指し地を画してきわめて激しく諫めたため、光武帝は容れずに罷免して郷里へ帰した。
- しかもなお怒りが解けず、使者を遣わして責めさせたので、韓歆は子の韓嬰とともに自殺した。人々は重い名望のある人物が罪に当たらぬまま死んだと感じ、納得しなかった。
- 光武帝はのちに銭穀を追賜して礼を備えて葬らせた。
司馬光の評
- 率直な諫言は臣下にとって得ではないが、国家にとっては福である。高宗が傅説に、薬も強く効かなければ病は治らぬと言ったのはその意味だ、と司馬光は評する。
- 光武帝ほどの明主の時代に、直諫によって韓歆が死んだのは、その仁明に傷をつけることだと惜しんでいる。
丁未 彗星と欧陽歙の任命
- 丁未、昴宿に彗星が現れた。
- 汝南太守の欧陽歙が大司徒に任じられた。
匈奴侵入と北辺住民の移住
- 匈奴の略奪は日ごとに激しくなり、州郡では抑えられなくなった。
- 二月、吳漢が馬成・馬武らを率いて北へ出征し、同時に雁門・代郡・上谷の官民六万余口を居庸関・常山関の東へ移して胡寇を避けさせた。
- 匈奴左部はさらに塞内へ移って居住するようになり、朝廷はこれを憂えて、辺境の兵力を数千人単位で増派した。
四月 皇子封公と劉縯追諡
- 丁巳、皇子の輔を右翊公、英を楚公、陽を東海公、康を済南公、蒼を東平公、延を淮陽公、荊を山陽公、衡を臨淮公、焉を左翊公、京を琅邪公に封じた。
- 癸丑、兄の劉縯に斉武公、兄仲に魯哀公の諡を追って贈った。
- 光武帝は劉縯の事業が成就しなかったことを深く感じ、その二子の章・興を厚く養い、若くして尊貴になったため実務を経験させるべく、章を平陰令、興を緱氏令に試任した。のちにはそれぞれ梁郡太守・弘農太守に昇進させた。
墾田検核と東海公陽の機知
- 光武帝は、天下の墾田面積が実態どおりに申告されず、戸口・年齢の増減も不正が多いと考え、州郡に検核を命じた。
- ところが刺史・太守の多くは、検田を名目に民を田野に集め、家屋や里落まで測り、豪右を優遇し弱民を搾るなど、巧妙な不正を働いたので、民は道を塞いで泣き叫んだ。
- 各郡が使者を遣わして報告した時、光武帝は陳留の役人の牘上に「潁川・弘農は問うべし、河南・南陽は問うべからず」と書かれた文を見つけた。
- その由来を問い詰めても役人は認めず、長寿街で拾ったものだと言い逃れたが、幄の後ろにいた十二歳の東海公陽が、郡からの教令で、墾田面積の比較のために書いたものであり、河南は帝都で近臣が多く、南陽は帝の故郷で近親が多く、規定を越える田宅が多いため基準にできないと言いたかったのだろうと述べた。
- 光武帝が虎賁中郎将に取り調べさせると、役人はその通りだと自白した。光武帝はこれによってますます陽を奇才として愛した。
- さらに謁者を派遣し、二千石や長吏で阿諛や不公平のあった者を実地に調査させた。
冬十一月 欧陽歙下獄
- 甲戌、大司徒欧陽歙は、前に汝南太守だった時の検田不実と、千余万に及ぶ贓罪で下獄された。
- 欧陽氏は代々『尚書』を伝え、八代にわたって博士を出した家柄だったので、門生ら千余人が宮門を守って哀願し、中には自ら髪を落とし身を剃って許しを請う者もいた。平原の礼震という十七歳の者は、自分が身代わりに死にたいと願い出た。
- それでも光武帝は赦さず、欧陽歙は獄中で死んだ。
十二月 戴渉任命・盧芳再起・杜茂免官
- 庚午、関内侯戴渉が大司徒に任じられた。
- 盧芳は匈奴から再び戻って高柳に拠った。
- この年、驃騎大将軍杜茂は軍吏に人を殺させた罪で免官となり、揚武将軍馬成が代わって障塞を修繕し、十里ごとに候を置いて匈奴に備えた。
- 騎都尉張堪が杜茂の旧営を率いて高柳で匈奴を破り、漁陽太守に任じられた。八年間の在任中、匈奴は塞を犯さず、農耕を勧めて百姓を富ませたので、民は「桑に余枝なく、麦は二穂を生じる。張君の政は楽しみ尽きぬ」と歌った。
- 安平侯盖延が薨じた。