資治通鑑漢紀三十五 世祖光武皇帝中之下 建武十四年 38年

夏 卭穀王任貴を越巂太守に

  • 卭穀王の任貴が三年ごとの計簿を奉って上り、越巂太守に任じられた。

秋 会稽の疫病

  • 会稽郡で大疫病が起こった。

西域諸国の都護再設置請願

  • 莎車王賢と鄯善王安が使者を送って献上した。
  • 西域諸国は、匈奴の重い徴発に苦しみ、みな漢に属してふたたび都護を置いてほしいと願った。
  • しかし光武帝は、中国本土がようやく安定したばかりであるとして許可しなかった。

梁統の刑制論

  • 太中大夫梁統は上疏し、元帝・哀帝の時代に死刑を軽くした多くの法改正、とくに手ずから人を殺した者まで減刑したことが常例化したため、人は罪を軽く見て犯し、役人はかえって人を殺しやすくなったと論じた。
  • 君主の道は仁義にあるが、刑罰は軽ければよいのではなく、中正であることが大切で、高祖の定律や文帝の法改正くらいが適切であり、その後の軽減は政体を害したと主張した。具体的に害の大きい条目を上表に添えて、変更されぬ定法を定めるよう求めた。
  • これに対し、光禄勲杜林は、漢初の苛政廃止は歓迎されたが、その後法令が繁くなり、小事でも重罰に処されるため、上下とも互いに法を避け合う弊害が深まったので、旧制のまま軽々しく改めるべきでないと奏した。
  • 梁統は再び、求めているのは厳刑ではなく「刑の衷」、すなわち軽すぎず重すぎぬ中正な刑であると述べ、高祖から宣帝まで治世が称えられたのに、初元・建平以降に盗賊が増えたのは刑罰が軽すぎて愚民も犯しやすくなったからだと論じた。
  • しかしこの議論は採用されず、そのまま立ち消えとなった。