資治通鑑漢紀三十四 世祖光武皇帝 建武 九年 33年

春正月 祭遵の死

  • 潁陽成侯・祭遵が軍中で薨じた。
  • 光武帝は馮異にその営を兼領させた。
  • 祭遵は廉潔で自制心が強く、公に尽くし、恩賞はほとんど士卒に分け与えた。軍律は厳正で、軍の駐屯先でも吏民はその負担を感じないほどだった。
  • 人材登用には儒術を重んじ、酒宴では雅楽を歌い、投壺をするなど、武将でありながら文雅を失わなかった。
  • 臨終には薄葬を戒め、家事には一言も及ばなかった。
  • 光武帝はとりわけ深く悲しみ、喪車が河南に着くと素服で臨み、声をあげて哭し、葬礼後もたびたびその墓を訪れた。後の朝会でも「祭征虜のように憂国奉公の臣を得たいものだ」と嘆いた。

隗囂死去、隗純擁立

  • 隗囂は病み、飢えて糗糒を食しながら怒りと無念のうちに死んだ。
  • 王元・周宗はその少子・隗純を王に立て、兵を総べて冀に拠らせた。
  • 公孫述は趙匡・田弇を援軍として送った。
  • 光武帝は馮異に討たせた。

公孫述の荊州方面作戦

  • 公孫述は翼江王の田戎、大司徒の任満、南郡太守の程汎に数万を授け、江関を下らせた。
  • 彼らは馮駿らを破り、巫・夷道・夷陵を奪い、さらに荊門・虎牙の間を押さえた。
  • 江には浮橋を渡して楼櫓を設け、柱を林立させて水路を絶ち、陸上にも山を跨ぐ営を築いて漢軍を遮断した。

六月 北辺戦と匈奴の勢い

  • 光武帝は緱氏に行幸し、轘轅に登った。
  • 呉漢は王常ら四将軍を率いて高柳で賈覧・閔堪を攻めたが、匈奴の援軍を受けた敵に敗れた。
  • これ以後、匈奴の侵掠はいっそう盛んになり、朝廷は朱祜を常山、王常を涿郡、侯進を漁陽に置き、王霸を上谷太守にして備えを固めた。

西方兵站の整備

  • 光武帝は来歙に長安の諸将を総監させ、馬援を副えた。
  • 来歙は上書して、隴西・天水という公孫述の藩屏が崩れれば蜀は窮するので、西州が新たに平定された今こそ兵馬・資糧を増し備蓄すべきだと説いた。
  • 光武帝はその意見を容れ、汧に穀六万斛を積ませた。

秋八月 天水攻略

  • 来歙は馮異ら五将軍を率いて隗純を天水で討った。
  • 同じころ、驃騎将軍の杜茂は繁畤で賈覧と戦って敗れた。

羌対策の再建

  • 王莽末以来、羌族は塞内に入り、金城の属県の多くを占めていた。隗囂は討たず、むしろ懐柔して漢に対抗する兵力に利用していた。
  • 司徒掾の班彪は、羌胡は習俗・言語が漢人と異なるうえ、しばしば小役人や悪人に搾取されて恨みを積もらせるため反乱に至るのだと論じた。
  • そして、旧制どおり涼州に護羌校尉を復置し、羌との怨結を調停し、巡察と通訳・情報収集を行わせるべきだと上言した。
  • 光武帝はこれを採用し、牛邯を護羌校尉とした。

陰貴人の一族への処置

  • 賊が陰貴人の母・鄧氏と弟の訢を殺したため、光武帝は深く悲しんだ。
  • 貴人の弟・陰就を宣恩侯に封じ、兄の陰興も召して封侯しようとしたが、陰興は、自分には先登陥陣の功がなく、一家で重ねて爵土を受ければ天下の不満を招くとして固辞した。
  • 光武帝はその志を賞して無理に受けさせなかった。
  • 陰貴人が理由を問うと、陰興は外戚はとかく驕りやすく、侯王と婚姻を求め、公主を望むようなふるまいが家を危うくすると説いた。貴人は深く感じ入り、以後宗族のために官位を求めなかった。

郭伋の潁川統治

  • 光武帝は寇恂を召還し、代わって郭伋を潁川太守とした。
  • 郭伋は山賊の趙宏・召呉ら数百人を招いて降し、田へ帰らせたうえ、自ら専断の罪を申し出た。光武帝は咎めなかった。
  • その後、郭伋の威信を聞いた者たちが江南や幽・冀方面からも次々と帰順し、その列は絶えなかった。

西域 莎車の変

  • 莎車王の康が死に、弟の賢が立った。
  • 賢は拘弥王と西夜王を攻め殺し、康の二子をそれぞれその地の王に立てた。