資治通鑑漢紀三十四 世祖光武皇帝 建武 八年 32年
春 来歙、略陽を奇襲
- 来歙は二千余人を率い、山を切り道を開いて番須回中を通り、近道から略陽を急襲した。
- 隗囂方の守将・金梁を斬って城を奪うと、隗囂はその神速に驚いた。
- 光武帝も大いに喜び、略陽は隗囂の依拠する要害であり、ここを失えば中枢が崩れたも同然で、あとは手足を制するだけだと評した。
漢諸将の進撃停止
- 呉漢ら諸将は略陽確保を聞いて競って救援に向かったが、光武帝は、隗囂が総力を挙げて来歙を囲み、長期包囲で疲弊したところを討つべきだと判断した。
- そのため諸将を追い返し、深入りを戒めた。
隗囂、略陽を包囲
- 隗囂は王元を隴坻に、行巡を番須口に、王孟を鶏頭道に、牛邯を瓦亭に配し、自ら数万の大軍で略陽を囲んだ。
- 公孫述も李育・田弇を援軍として送った。
- 彼らは山を切り堤を築き、水を引いて城を灌漑したが、来歙は将士とともに決死で守り、矢が尽きれば家屋を壊し木材を兵器に替えて抵抗した。
- 隗囂は数か月攻めても陥とせなかった。
閏四月 光武帝、自ら西征
- 光武帝は親征を決断した。
- 光禄勲の郭憲は、東方平定がまだ浅く、遠征は危険だとして、御車の前に立ち佩刀で車の靷を断ってまで諫めたが、帝は従わなかった。
- 帝が漆に至ると、諸将の多くは、皇帝自らが険阻へ入るべきでないとしてためらった。
- そこで馬援が進み出て、隗囂軍には土崩の勢いがあり、進めば必ず破れると説き、米を積んで山谷の地形を示し、進軍路を具体的に説明した。
- 光武帝はこれを聞いて勝機を確信し、翌朝ただちに進軍した。
高平第一で竇融と合流
- 光武帝は高平第一に進んだ。
- 竇融は五郡太守と羌・小月氏ら数万の歩騎、さらに輜重五千余両を率いて会師した。
- その際、竇融は事前に朝会の礼式を確認させたので、光武帝はその慎み深さを喜び、百僚に知らせて、特別の礼をもって迎えた。
- 軍は数道から隴に上り、王遵をして牛邯に書を送らせると、牛邯は降って太中大夫となった。
隗囂勢力の崩壊
- これにより隗囂配下の大将十三人、属県十六、兵十余万がみな降伏した。
- 隗囂は妻子を連れて西城へ奔り、楊広に従った。田弇・李育は上邽に拠った。
- 略陽の囲みは解け、光武帝は来歙を厚くねぎらって諸将の右に別席で座らせ、妻にも絹千匹を賜った。
- さらに上邽に進み、隗囂に対して、束手して来れば父子再会を保証すると詔したが、隗囂はついに降らなかった。
- そこで子の恂を誅し、呉漢・岑彭に西城を、耿弇・蓋延に上邽を包囲させた。
竇融らへの封爵と帰鎮
- 光武帝は竇融を安豊侯、弟の竇友を顕親侯に封じた。
- 五郡太守もみな列侯に封じ、各自の鎮所へ帰らせた。
- 竇融は長く一方面を専管してきたことに不安を覚え、しばしば交代を願い出たが、光武帝は左右の手に等しいとまで言って慰留した。
秋 関東で盗賊再起
- 潁川で盗賊が群起し、属県を侵した。河東の守備兵も反乱し、京師は騒然となった。
- 光武帝は、郭憲の諫言を用いなかったことを悔いた。
八月 光武帝、急ぎ東還
- 光武帝は上邽から昼夜兼行で東へ引き返した。
- 岑彭らには書を送り、西城・上邽の二城が落ちたら南下して蜀を討てと命じた。隴が平らげば次は蜀を望むので、軍事に心を砕くあまり鬚まで白くなると嘆いた。
九月 潁川平定
- 洛陽に戻ると、執金吾の寇恂に潁川平定を命じた。
- 寇恂は、賊は皇帝が隴蜀に在陣している隙を見て誤って騒いでいるだけで、車駕が南を向けばすぐ降ると述べ、自ら先鋒を願った。
- 光武帝が親征すると、潁川の盗賊はことごとく降伏した。
- 百姓は寇恂の留任を願って道を塞ぎ、「寇君をもう一年だけ借りたい」と訴えたため、帝は長社にとどめて民心の鎮撫に当たらせた。
東郡・済陰の鎮圧
- 東郡・済陰でも盗賊が起こったため、光武帝は李通・王常を派遣した。
- さらに、かつて東郡太守として威信のあった耿純を太中大夫として派遣すると、東郡の賊九千余人が一戦もせず耿純に降った。
- その功で、璽書により再び耿純を東郡太守に任じた。
張歩の最期
- 張歩は妻子を連れて臨淮へ逃れ、弟の弘・藍とともに旧部を集めて海へ入ろうとしたが、琅邪太守の陳俊に追われて斬られた。
冬 西城包囲軍の撤退
- 光武帝は懐へ行幸し、その後洛陽へ還った。
- 楊広が死ぬと隗囂は窮乏し、大将の王捷だけが戎丘で別働していた。王捷は城上から、隗王のために守る者は必ず死ぬ、二心はないと叫び、自刎して節を示した。
- しかし呉漢らは攻囲に兵を集中するあまり、地方兵を解散して糧秣消費を抑えるという光武帝の命に従えず、糧食が尽きて兵士の逃亡が相次いだ。
- 岑彭が谷水をせき止めて西城を水攻めにしたが、王元・行巡・周宗らの蜀援軍五千余が高所から急襲し、大声で大軍来着を装ったため、漢軍は大いに動揺した。
- 王元らは決死戦で包囲を破り、隗囂を迎えて冀へ帰した。
- 呉漢は糧尽きて輜重を焼き、兵を率いて隴を下った。蓋延・耿弇も退き、隗囂は追撃したが、岑彭が殿軍となって諸軍を救った。
- 祭遵だけは汧にとどまり、呉漢らは長安へ、岑彭は津郷へ引いた。
- これにより安定・北地・天水・隴西が再び隗囂に帰した。
温序の死節
- 校尉の温序が隗囂方の茍宇に捕えられた。
- 茍宇は何度も説得して降伏を勧めたが、温序は怒って「賊徒が漢将を脅せるものか」と罵り、節で数人を打ち殺した。
- 茍宇はその義烈を惜しみ、剣を与えて自決させた。温序は髭が土に汚れるのを嫌って口にくわえ、伏剣して死んだ。
- 従事の王忠が遺骸を洛陽に持ち帰り、光武帝は墓地を賜い、三子を郎に任じた。
十二月 高句麗と水害
- 高句麗王が使者を送って朝貢したため、光武帝は王号を復した。
- この年、大水害があった。