資治通鑑漢紀三十四 世祖光武皇帝 建武 七年 31年
春三月 郡国兵の整理
公孫述、隗囂を朔寧王に封じる
- 公孫述は隗囂を朔寧王に立て、往来する兵でその勢力を支えた。
晦日の日食と鄭興の上疏
- 晦日に日食があったため、光武帝は百官に封事を上らせ、「聖」を称える語を用いてはならないと命じた。
- 鄭興は上疏し、善政がなければ日月に譴責が現れるとし、ことに郭伋を大司空に推す声が多いのに、功臣を優先しようとして決定が遅れているのはよくないと論じた。
- また、近年の日食が晦日より前に起こるのは月行が速いからで、これは君主が急き、臣下が追い立てられている象徴だとして、剛よりも柔を重んじる政治を求めた。
- 光武帝はもともと政務に励むあまり厳しさが目立っており、鄭興の指摘はその点を衝いたものだった。
夏四月 大赦と大司空任命
- 大赦が行われた。
- 前将軍の李通が大司空に任じられた。
三公監察案の否決
- 大司農の江馮は、司隷校尉に三公を監察させるべきだと上言した。
- これに対し司空掾の陳元は、帝王の治は大臣を師・賓として重んじることにあり、王莽のように公輔の権威をそいで刺挙・告発を乱用すれば、結局は国家を損なうと反論した。
- 光武帝は陳元の意見を採用した。
酒泉太守交代
- 酒泉太守の竺曾は、弟の仇討ちによる殺人事件の責任を取り、自ら郡を去った。
- 竇融は承制して竺曾を武鋒将軍に任じ、辛肜を酒泉太守に改めた。
秋 隗囂の安定侵攻
- 隗囂は歩騎三万で安定へ侵入し、陰槃に至った。
- 馮異が諸将を率いて防ぎ、さらに隗囂は別将に命じて汧の祭遵を攻めさせたが、いずれも利なく退いた。
- 光武帝は自ら隗囂を討とうとしたが、先に竇融へ出兵期日を通知していたところ、雨で道路が絶え、しかも隗囂軍も退却していたので中止した。
- 代わって来歙が王遵を文書で招くと、王遵は降伏し、太中大夫・向義侯に封ぜられた。
冬 盧芳配下の離反
- 盧芳は五原太守の李興兄弟を処刑したため、朔方太守の田颯、雲中太守の喬扈がそれぞれ郡を挙げて漢に降った。
- 光武帝は二人に旧職のまま郡を治めさせた。
図讖をめぐる光武帝と鄭興
- 光武帝は図讖を好み、郊祀のことを鄭興に相談して、讖文に拠って決めたいがどうかと尋ねた。
- 鄭興は、自分は讖学を修めていないだけで、否定するのではないと恐る恐る答え、帝の怒りは解けた。
杜詩の善政
- 南陽太守の杜詩は、政治が清平で、利を興し害を除き、百姓を豊かにした。
- 池や堤も修めて耕地を広げ、家ごとに充足するほどで、人々は前漢の名太守・召信臣になぞらえ、「前に召父あり、後に杜母あり」と讃えた。