資治通鑑漢紀三十四 世祖光武皇帝 建武 六年 30年

春正月 江淮・山東の平定

  • 舂陵郷を章陵県とし、代々の徭役を免除して、漢の高祖ゆかりの豊・沛にならう特別待遇とした。
  • 呉漢らが朐を攻略し、董憲・龐萌を斬った。これにより江淮から山東にかけての反乱勢力はほぼ平定された。
  • 諸将が洛陽に帰還すると、光武帝は宴を開いて功をねぎらい、褒賞を与えた。

東方平定後の対隴・対蜀方針

  • 光武帝は長年の戦乱に疲れており、隗囂は子を人質として仕え、公孫述は遠く辺境に拠っているだけなので、ひとまずこの両者は差し置いて、諸将を洛陽で休養させ、軍士は河内に分屯させた。
  • その一方で、隴右と蜀へはたびたび文書を送り、利害得失を説いて帰順を促した。

公孫述への警告と蜀の内部事情

  • 公孫述はしきりに中国へ文書を送り、自分に天命があると宣伝して人心を惑わそうとした。
  • 光武帝は返書で、図讖を口実に帝位を唱えるのは王莽のまねにすぎないと退け、老境に入った以上、妻子のためにも早く身の振り方を決めるべきだと諭した。返書にはあえて「公孫皇帝」と署して、その虚妄を皮肉った。
  • 述の騎都尉・荊邯は、今こそ隙に乗じて荊州・関中へ進出すべきだと強く進言した。隗囂が好機を逃した結果、漢に東方平定を許したのだから、蜀も同じ轍を踏むべきではないというのである。
  • だが博士の呉柱らは、外援もなく遠征するのは危険だと反対した。述はいったん北軍や山東出身の客兵を総動員しようとしたが、弟の公孫光らが国を空にする危険を訴えたため中止した。
  • 田戎・延岑らはたびたび出兵を求めたが、述は猜疑心が強く応じなかった。実権は公孫氏一族に集中し、銅銭をやめて鉄銭を用いたため貨幣流通も乱れ、民衆は苦しんだ。
  • 行政は細事にうるさく、郡県や官職名をたびたび改めたうえ、二人の子を王に立てて領地を与えたため、大臣たちの不満は強まった。

馮異の入朝

  • 馮異が長安から入朝すると、光武帝は公卿に対し、起兵当初からの腹心であり、関中平定の大功があるとその功績を語った。
  • 多くの珍宝・銭帛を賜い、かつて蕪蔞亭の豆粥や滹沱河の麦飯でもてなされた恩義を忘れていないと詔した。
  • 馮異は、国家は河北の苦戦を忘れず、自分もまたかつての厚遇を忘れないと答えた。
  • 十数日滞在したのち、妻子を伴って西方に帰ることを許された。

申屠剛・杜林・鄭興の帰順

  • 申屠剛・杜林が隗囂のもとから来ると、光武帝は二人を侍御史に任じた。
  • 鄭興は太中大夫に任じられた。

三月 田戎の出兵と隗囂の動揺

  • 公孫述は田戎を江関から出撃させ、旧部を集めて荊州を取ろうとしたが成功しなかった。
  • 光武帝は隗囂に、天水方面から蜀を討つ計画への協力を求めた。
  • 隗囂は、白水方面は険阻で桟道も壊れており、今は述の苛酷な政治が内外の怨みを招いているから、その罪悪が明白になってから攻めれば呼応者が現れると主張した。
  • 光武帝は、隗囂が結局は頼りにならないと見て、本格討伐を考え始めた。

夏四月 長安行幸と来歙の使命

  • 光武帝は長安へ行幸し、園陵を拝した。
  • 耿弇・蓋延ら七将軍を隴道から蜀討伐に向かわせ、その前に中郎将の来歙を派遣して、詔書をもって隗囂を諭した。
  • しかし隗囂は疑いと口実を並べ、ぐずぐずして決断しなかった。
  • 来歙は怒って、すでに子の伯春を人質として出しておきながら、なぜ佞臣の言葉に従って一族滅亡の道を選ぶのかと面詰した。剣を抜いて刺そうとまでしたため、隗囂は兵を整えて来歙を殺そうとしたが、王遵が強く諫めた。
  • 王遵は、来歙は単身の使者であるうえ皇帝の外戚であり、殺しても漢に痛手はなく、逆に大禍を招くと説いた。来歙は西州で信望が厚かったこともあって、無事に帰還できた。

五月 隗囂、ついに反旗を翻す

  • 光武帝が長安から帰還すると、隗囂はついに反乱を起こした。
  • 王元を隴坻に配置し、木を伐って道を塞がせた。
  • 漢の諸将は隗囂軍と戦って大敗し、みな隴を下って退いた。追撃は激しかったが、馬武が精鋭騎兵を率いて殿軍となり、多くを討って全軍を救った。

六月 吏員削減

  • 光武帝は、百姓が戦乱で減っているのに官吏の数だけが多いのは不適切だとして、司隷校尉と州牧に実情調査を命じ、県や国で長吏を置くに足りないところは統合させた。
  • その結果、四百余県が併合され、官吏数も大きく減らされた。

九月 日食と朱浮の上疏

  • 晦日に日食が起こった。
  • 執金吾の朱浮は、最近地方長官の交代が頻繁すぎて、着任早々に厳しく成果を求めるため、官吏が身を守るため虚飾に走っていると論じ、これは政治の性急さが天変を招いたのだと上疏した。
  • 光武帝はその意見を採り、以後は州牧・太守の交代をやや慎重にした。

十二月 租税軽減と関中方面の戦局

  • 大司空の宋弘が罷免された。
  • 光武帝は、戦費不足のため実施していた十分の一税をやめ、田租を旧制どおり三十分の一に戻した。
  • 一方、隴右方面では、諸将が隴を下った後、耿弇は漆、馮異は栒邑、祭遵は汧に、それぞれ駐屯した。呉漢らは長安に戻った。
  • 隗囂は勝ちに乗じて王元・行巡に二万余を授けて隴を下らせ、栒邑攻略を図った。
  • 馮異は、敵が小利に気をよくして深入りしている今こそ先に城を押さえるべきだとして、栒邑へ急行し、敵の不意を突いて大破した。祭遵も汧で王元を破った。
  • これによって北地の豪族・耿定らはみな隗囂に背き、漢に降った。
  • さらに馮異は義渠へ進み、盧芳の将・賈覧や匈奴の奥鞬日逐王を破り、北地・上郡・安定がみな帰服した。

竇融の忠誠表明

  • 竇融は弟の竇友を通じて再度上書し、蜀漢・隗囂・尉佗のような割拠策に自分を引き込もうとするのは心外だと述べ、真の漢室に背いて偽りの勢力に与することは決してしないと誓った。
  • 竇友は高平まで来たが、隗囂の反乱で道が塞がれたため、司馬の席封を間道で派遣して書を届けさせた。光武帝も厚く慰撫した。
  • 竇融は隗囂にも書を送り、西州は地勢が狭く兵民も離散しており、自立は難しい、蜀と結ばなければ匈奴に入るしかなく、遠い援軍を頼んで近い強敵を軽んじるのは危険だと説いた。だが隗囂は聞き入れなかった。
  • そこで竇融は五郡太守とともに兵馬を整え、出兵時期を請う上疏をした。みずから金城へ進んで隗囂党の先零羌・封何らを大破し、黄河沿いに威勢を示したのち、時機が整わぬとしていったん引き返した。
  • 光武帝はその忠誠を嘉し、竇融の父祖の墓を修復し、太牢をもって祭り、しばしば使者と珍味を送って厚遇した。
  • 梁統も人心の動揺を恐れ、隗囂の使者張玄を刺客に殺させて、隗囂と絶交した。五郡の者たちは仮に受けていた将軍印綬も返上した。

馬援、隗囂離反を訴える

  • 馬援は以前から、隗囂が漢に二心を抱く兆しを見て、たびたび書簡で諫めていた。隗囂はそれを恨んでいた。
  • 隗囂が反乱を起こすと、馬援は上書して、かつて自分は隗囂の依頼で東方情勢を見に行き、誠心から正道に導こうとしたのに、隗囂はかえって自分を怨んでいると述べ、討伐策を直接陳じたいと願った。
  • 光武帝はこれを召し出し、馬援は隗囂軍の将たちや羌族豪族に対し、騎兵を率いて往来しつつ利害を説き、離反を促すよう命じられた。
  • 馬援は隗囂の将・楊広にも書を送り、いまや天下の趨勢は定まり、隴右二郡で諸夏百余郡に対抗するのは無理である、伯春の家族も泣き悲しんでいる、今のうちに隗囂を思いとどまらせるべきだと切々と説いた。
  • 楊広は返答しなかったが、以後諸将は疑問が生じるたび馬援に相談し、その見識を敬った。

隗囂の弁解と再勧告

  • 隗囂は上疏して、大軍が急に来たので吏民が恐れて自衛しただけであり、自分は臣子の節を捨ててはいない、親しく追い返したのだと弁明した。舜が大杖なら逃げ小杖なら受けた故事を引き、死を賜うなら甘受すると述べた。
  • 有司はその文面を不遜として子の処刑を求めたが、光武帝は忍びず、再び来歙を汧に派遣して説得した。
  • 光武帝は、もし隗囂が束手して子弟を帰還させるなら爵禄も保たれると諭したが、隗囂はすでに見透かされたと知り、公孫述へ使者を送って臣下の礼を取った。

匈奴・盧芳の侵入継続

  • 匈奴は盧芳と結んで侵掠をやめず、光武帝は帰徳侯の颯を匈奴へ派遣して旧好回復を図った。
  • 単于は驕慢で、返使こそ送ったが、侵暴はなお改まらなかった。