資治通鑑漢紀 世祖光武皇帝 建武 五年 29年
正月:馬援の復命と隗囂の心変わり
- 春正月癸巳、車駕は宮へ還った。
- 帝は来歙に節を持たせて馬援を隴右へ送り返した。
- 隗囂は馬援と寝食をともにしながら東方の事情を問いただした。馬援は、朝廷ではたびたび引見され、夜更けから明け方まで語り合い、皇帝は才知・明敏・勇略において比類なく、心を開いて誠を示し、大節には高祖と同じだが、経学や政務・文辞では前代に比べる者がないと評した。
- 隗囂が高祖と比べてどうかと問うと、馬援は「及ばない」と答えた。高祖は可も不可もない自在な人物だったが、今上は吏事を好み、行動に節度があり、酒も好まないと述べた。
- 隗囂はその言葉を喜ばず、「それではかえって今上の方が勝るのではないか」と不機嫌になった。
二月:蘇茂・周建の敗北
- 二月丙午、大赦。
- 蘇茂が五校の兵を率いて垂惠の周建を救いに来た。馬武はこれに敗れて王霸の営を通り、大声で救援を求めた。
- 王霸は、敵兵は精鋭で数も多く、こちらの兵は恐れており、馬武も自軍を頼みにしているから、いま無理に出れば双方敗れると言って、あえて営門を閉ざして固守した。
- その狙いは、敵が勝ちに乗じて深入りし、馬武は救いがないと思って必死に戦い、敵が疲れたところを突くことにあった。
- 果たして蘇茂・周建は全軍で馬武を攻め、長く戦った。王霸軍中の壮士数十人は髪を断って出戦を請い、王霸はそこで初めて営後から精騎を出して敵背を襲った。蘇茂・周建は前後から攻められて敗走した。
- その後、蘇茂・周建は再び兵を集めて挑戦したが、王霸はなお出ず、酒宴と音楽で兵を休めた。敵の矢は雨のように営中へ降り、王霸の前の酒樽にも当たったが、王霸は平然として動かなかった。
- 軍吏が今こそ敵を撃つべきだと主張すると、王霸は、蘇茂は客軍で食糧不足だからこそたびたび勝負を挑んで一時の勝利を求めているのだ、こちらが固守して休めば、戦わずして人の兵を屈することになると説明した。
- ついに蘇茂・周建は戦えないまま退いたが、その夜、周建の兄の子の周誦が反乱して城門を閉ざし、周建は道中で死んだ。蘇茂は下邳へ逃れて董憲と合流し、劉紆は佼彊のもとへ逃れた。
彭寵の滅亡
- 乙丑、帝は魏郡に行幸した。
- 彭寵の妻はたびたび悪夢を見、怪異も多く、卜筮や望気をする者はみな、兵乱は内側から起こると言った。
- 彭寵は、以前に漢に人質として送っていた子の后蘭卿が帰ってきてからも、これを信じず、彼に外で兵を率いさせ、内廷には近づけなかった。
- 彭寵が便室で斎戒していた時、奴僕の子密ら三人が就寝中を襲って縛り上げた。彼らは外の役人に対し、「大王は斎戒中なので皆休め」と偽命を伝え、奴婢を各所に閉じ込め、さらに彭寵の命と偽って妻を呼び入れた。
- 妻が驚いて「奴が反いた」と叫ぶと、奴らはその頭をつかんで打った。彭寵は助命を乞うため、彼らを「将軍」と呼んで装いを整えさせようとした。
- 一人の若い奴に対し、平素かわいがっていたから縄を解いてくれれば娘も珠玉も家財も与えると誘ったが、その奴は戸外で子密が話を聞いているのを見て、恐れて解かなかった。
- 奴らは金玉・衣物を集め、馬六匹に載せ、夜になると彭寵に命じて城門将軍あての通行手形を書かせた。后蘭卿のもとへ行く子密らを通せと書かせたうえで、彭寵とその妻の首を斬って袋に入れ、手形を持って城を出て、そのまま京師へ赴いた。
- 翌朝、閤門が開かないのを怪しんだ官属が塀を越えて入り、彭寵の死体を見て驚き恐れた。
- 尚書韓立らは彭寵の子の彭午を立てて王とし、韓利がこれを斬って祭遵に降った。彭寵の宗族は皆誅された。
- 帝は子密を「不義侯」に封じた。のち権徳輿は、君を殺した者と君命に叛いた者は同じく乱であり、ともに法に服すべきで、しかも「不義」を侯名にするのはおかしいと批判している。また『春秋』が衛の斉豹を「盗」と書き、叛人も名指しした例を引き、この封爵はその義に合わないと論じた。
漁陽・上谷・平原方面
- 帝は扶風の郭伋を漁陽太守に任じた。郭伋は戦乱後の民を養い、兵を訓練し、威信を示して盗賊を鎮め、匈奴も遠ざけ、五年で戸口を倍増させた。
- 帝は光禄大夫樊宏に節を持たせて耿況を上谷から迎えた。辺郡は寒く苦しいので長く居るべきでないという配慮からである。
- 耿況が京師に至ると、邸宅を与え、朝請に列せしめ、牟平侯に封じた。
- 呉漢は耿弇・王常とともに平原で富平・獲索の賊を討ち、大破した。追撃して勃海に至り、降る者四万余に及んだ。
龐萌の反乱
- 平狄将軍龐萌は温順な人柄で、帝に厚く信愛され、幼主や一郡を託せる人物とまで称えられていた。
- 帝は蓋延とともに董憲を討たせたが、詔書が蓋延にだけ下り、龐萌には届かなかった。龐萌は蓋延が自分を讒したのではないかと疑い、ついに反乱した。
- 龐萌は蓋延の軍を襲って破り、董憲と連合して東平王を称し、桃郷の北に屯した。
- 帝はこれを聞いて激怒し、みずから討とうとして諸将に書を送り、かつて龐萌を社稷の臣とまで思っていた自分を笑うだろうが、この老賊は必ず族滅すると述べ、睢陽に会兵するよう命じた。
劉平の忠義、岑彭の南方経略
- 龐萌は彭城を破り、楚郡太守孫萌を殺そうとした。郡吏の劉平が太守の上に覆いかぶさって号泣し、自分が代わりに死ぬと願ったため、身に七か所の創を負った。
- 龐萌はその義に感じて太守を助けた。太守は一度息絶えたが蘇生し、渇いて飲み物を求めた。劉平は自分の傷口の血をしぼってこれを飲ませた。
- 岑彭は夷陵を攻略し、田戎は蜀へ逃れた。岑彭はその妻子と数万の兵を捕らえた。公孫述は田戎を翼江王に封じた。
- 岑彭は蜀伐ちを図ったが、両岸が迫って水路が険しく、兵糧輸送が難しいと見て、馮駿を江州、田鴻を夷陵、李玄を夷道に置き、自身はいったん津郷へ退いて荊州の要衝に屯した。
- さらに諸蛮夷を諭して、降る者の君長には封爵を上奏した。
天変と班彪の「王命論」
- 夏四月、旱魃と蝗害が起こった。
- 隗囂は班彪に、周が亡んで戦国が並び立ったように、いまも縦横家の策が再び行われるのか、それとも天命を受ける者が一人いるだけなのかと問うた。
- 班彪は、周は諸侯が世襲で本根が弱く枝葉が強かったため戦国の分裂が避け難かったが、漢は秦制を受けて郡県制を敷き、臣下に百年の私権がないので事情が異なると説いた。
- 成帝以後は外戚に権が移り、哀帝・平帝で国統が絶え、王莽が上から危機を起こしたが、民にまで漢の罪が及んだわけではなかった。だから王莽即位後、天下はみな漢を慕い、各地の兵が一斉に劉氏を称して起ち、漢の復興は明らかだと論じた。
- 隗囂はなお、民がただ劉氏の名を知っているだけで漢復興とみるのは浅いと疑い、秦の鹿を劉季が奪った時に人々は前漢を知っていたかと言い返した。
- そこで班彪は『王命論』を著し、帝王の位は功徳と天命なしには得られず、高祖を逐鹿の幸運だけで説明するのは誤りだと諷した。匹婦の陳嬰の母や王陵の母ですら興亡の理を見抜いたのだから、まして大丈夫が天命を疑うべきでないと説き、信・布・項籍・王莽ら強者もみな誅滅された例を挙げて、神器は智力で奪えないと戒めた。
- 隗囂は聞き入れず、班彪は河西へ避け、竇融の従事となった。竇融はこれを厚く礼遇し、班彪は竇融に漢への専心を勧める策を授けた。
竇融の東向
- 竇融ら河西の勢力は、以前から光武帝の威徳を聞いて東方へ心を向けていたが、遠隔で直接通じられず、ひとまず隗囂の建武年号を受け、その将軍印綬も仮に受けていた。
- 隗囂は外面では人望に従って漢に順う姿勢を取りつつ、内心は異志を抱いていたので、弁士張玄を派遣し、豪傑が競う今は各自が土宇を保って隴・蜀と連衡し、上は六国のように、下は尉佗のように自立すべきだと説かせた。
- 竇融らが豪傑を集めて議したところ、見識ある者は、光武帝の姓名は図書・讖文に現れ、谷子雲や夏賀良、西門君恵の事件もみな近年の漢再受命の徴だと論じた。王莽末に劉歆が名を改めてこれに応じようとしたことや、西門君恵が処刑の際に「劉秀こそ真の主だ」と言ったことも挙げられた。
- いま帝号を称する者は数人いるが、洛陽は地が広く兵甲が強く、号令も明らかで、人事・符命の両面から見ても他姓はとうてい対抗できない、という見解が優勢となった。
- 竇融はついに東向を決し、長史劉鈞らを洛陽へ送った。
- これに先立ち、帝もまた使者を出して竇融を招いており、その使者が道中で劉鈞と会って一緒に帰京した。
- 帝は劉鈞を厚く歓待したのち、竇融への璽書を託した。その文では、公孫子陽と隗将軍が角逐する中で、竇融が左右どちらへ足を向けるかで軽重が決まると述べ、桓文のように王室を助けるか、三分鼎足の勢をとるか、いずれにせよ早く定めよと促した。
- さらに、天下を併呑し合う関係ではなく、任囂・尉佗が七郡を制したような企てを議する者がいても、王者には分土はあっても分民はないのだとし、竇融を涼州牧に任じた。
- この璽書が河西に届くと、人々は天子が万里の外まで見通していると驚いた。
秦豊の終焉と桃城救援
- 朱祜が黎丘を急攻し、六月、秦豊は窮して降った。槛車に載せられて洛陽へ送られた。
- 呉漢は、朱祜が詔命に背いて秦豊の降伏を受けたと弾劾したが、帝は秦豊を誅しただけで朱祜は罪に問わなかった。
- 董憲・劉紆・蘇茂・佼彊は下邳から蘭陵へ移り、蘇茂・佼彊に龐萌を助けて桃城を囲ませた。
- 帝はその時蒙にいたが、これを聞くと輜重を残し、自ら軽兵を率いて昼夜兼行で急行した。亢父に至ると百官は疲労のため宿営を請うたが、帝は聞かず、さらに十里進んで任城に泊まった。
- 翌朝、諸将は進撃を請い、龐萌らも兵を整えて挑んだ。帝は諸将に出撃を禁じ、兵を休ませて鋭気を養い、その勢いをくじくことを選んだ。
- この時、呉漢らは東郡にいたため急使で召した。龐萌らは、数百里を昼夜走って来たからすぐ戦うと思ったのに、任城に居座ってこちらを城下へ引きつけるとは真に侮れない、と驚いた。
- そこで全軍で桃城を攻めたが、城中は車駕到着を聞いてますます固く守った。二十余日攻めても落ちず、敵軍は疲弊した。
- 呉漢・王常・蓋延・王梁・馬武・王霸らが到着すると、帝は諸軍を率いて救援に進み、自ら格闘して大勝した。龐萌・蘇茂・佼彊は夜のうちに董憲のもとへ逃げた。
夏秋:董憲の敗北
- 秋七月丁丑、帝は沛に幸し、さらに湖陵へ進んだ。
- 董憲と劉紆は数万の兵を昌慮に屯し、五校の残党を招き寄せて建陽で守らせた。
- 帝が蕃に至り、董憲の地まで百余里に迫ると、諸将は進軍を求めたが、帝は五校は食糧不足でやがて退くと見て、各軍に塁壁を固めてその疲弊を待たせた。
- ほどなく五校は果たして去り、帝は四面から董憲を親征して三日で大破した。佼彊はその兵を率いて降り、蘇茂は張歩のもとへ逃げ、董憲と龐萌は郯に籠もった。
- 八月己酉、帝は郯に幸し、呉漢に攻撃を任せて、自らは彭城・下邳を巡行した。
- 呉漢が郯を抜くと、董憲・龐萌は朐へ逃れた。劉紆は行き場を失い、その配下の高扈に斬られて降伏の手土産とされた。
- 呉漢はさらに朐を包囲した。
冬:耿弇の斉平定
- 冬十月、帝は魯に幸した。
- 張歩は耿弇が迫ると聞き、大将軍費邑を歴下に置き、祝阿にも兵を屯させ、さらに泰山の鍾城に数十営を連ねて迎えた。
- 耿弇は河を渡るとまず祝阿を攻め、朝から正午までに陥した。あえて囲みの一角を開けて逃走路を残したため、その兵は鍾城へ逃げた。
- 鍾城では祝阿陥落を聞いて恐れ、城を空けて逃げた。費邑は弟の費敢に巨里を守らせた。
- 耿弇は先に巨里を脅かし、軍中には三日後に総攻撃すると触れたが、密かに捕虜をゆるめて逃がし、その日程を費邑に知らせた。費邑は予定日どおり自ら精兵三万余を率いて巨里救援に出てきた。
- 耿弇はこれを待っていたので、三千人だけを巨里に残し、自らは精兵を率いて岡阪に登り、高地から会戦して費邑を大破し、陣中で費邑を斬った。
- その首級を城中へ示すと、巨里は恐れて崩れ、費敢も総兵で逃げ帰った。耿弇はその蓄えを収め、まだ降っていない諸営を攻めて四十余営を平らげ、済南を定めた。
西安・臨菑攻略
- 張歩は劇に本拠を置き、その弟の張藍に精兵二万を与えて西安を守らせ、諸郡太守ら一万余を臨菑に置いた。両城は四十里しか離れていなかった。
- 耿弇は二城の中間、画中に進軍した。西安は小さいが堅く、張藍の兵も精鋭である一方、臨菑は名目こそ大城でも実は攻めやすいと見抜いた。
- そこで諸校に「五日後に西安を攻める」と触れさせた。張藍はこれを聞いて昼夜警備を固めた。
- 期日の夜半、耿弇は諸将に蓐食させ、夜明けとともに西安ではなく臨菑へ進んだ。護軍荀梁らは、西安を攻めれば臨菑は救えず、臨菑を攻めれば西安が救援に来るから不利だと争った。
- 耿弇は、西安はすでにこちらを恐れて自守に忙しく、臨菑は不意を突かれれば一日で落ちる。臨菑が落ちれば西安は孤立して劇と絶たれ、自ずと逃げる、と説明した。
- 果たして臨菑は半日で陥落した。張藍はこれを聞くと恐れて西安の兵を率いて劇へ逃げた。
- 耿弇は兵に掠奪を禁じ、張歩が来るまでは何も取るなと命じた。これは張歩を怒らせて会戦に引き出すためだった。
- 張歩は、かつて尤来・大彤の十余万を自営で破ったのだから、耿弇の兵がこれより少なく疲れている以上、恐れるに足らないと笑った。
臨菑決戦と張歩の降伏
- 張歩は三弟の藍・弘・寿と、旧大彤の渠帥重異らを率い、号して二十万で臨菑東の大城に至って耿弇を攻めた。
- 耿弇は上書して、深い塹壕と高い塁に拠り、敵が疲れ飢え渇くのを待ち、進めば誘って攻め、退けば追撃するので、十日もあれば張歩の首を得られると述べた。
- まず菑水のほとりで重異と遭遇したが、敵の鋒をおごらせるため、あえて弱く見せて小城へ退いた。城内に主力を配し、都尉劉歆と泰山太守陳俊を城下に分陣させた。
- 張歩は意気盛んに耿弇の営を直攻し、劉歆らと交戦した。耿弇は臨菑の旧王宮の壊台から戦況を見て、敵味方が食い合ったところで自ら精兵を率い、東城下から横撃して張歩の陣を大破した。
- この戦いで耿弇は矢を股に受け、佩刀で矢柄を切ったが、左右には知らせなかった。夕方に戦いをやめ、翌朝には再び兵を整えて出た。
- このころ帝は魯にいて、耿弇が張歩に攻められていると聞き、自ら救援に向かっていた。陳俊は、帝の到着を待って営を閉じ兵を休ませるよう勧めた。
- しかし耿弇は、天子が来るのだから群臣を迎える酒肉を整えて待つべきで、賊を君父に残してどうするのかと言い、再び全軍で会戦した。朝から暮れまで戦ってまた大破し、死体が溝塹を埋めた。
- 張歩が困窮して退くと見た耿弇は、あらかじめ左右両翼に伏兵を置いた。夜の人定時、張歩は果たして退却し、伏兵が起って追撃し、鉅昧水まで八、九十里にわたって屍が連なった。
- 輜重二千余両を奪われ、張歩は劇へ逃れて兄弟で兵を分散させた。
- 数日後、車駕が臨菑に到着し、みずから耿弇を慰労した。帝は、韓信が歴下を破って基を開いたように、耿弇も祝阿攻略で功を開き、しかも韓信がすでに降った将を襲ったのに対し、耿弇は強敵を力攻めにしたのだから、その功は韓信以上に難しいと称えた。
- また、張歩が以前に伏隆を殺したことを挙げ、もし張歩が来降するなら、田横に仇ある酈食其を失った高祖の時と同じく、大司徒に命じて伏隆の父・伏湛の怨みを解かせようとも言った。
- 帝はさらに劇へ進み、耿弇は張歩を追って平寿へ走らせた。蘇茂が一万余を率いて救援に来たが、蘇茂は張歩に、延岑や南陽の精兵さえ耿弇に敗れたのに、なぜその営を攻めたのかと責めた。張歩はただ深く恥じるばかりだった。
- 帝は使者を遣わし、張歩と蘇茂のうち互いに首を取って降れば列侯に封ずると告げた。
- 張歩はついに蘇茂を斬り、上半身裸で耿弇の軍門に降った。耿弇はこれを行在所へ送ったうえで、兵を率いて平寿城へ入り、十二郡の旗鼓を立て、張歩の兵を郡別に旗の下へ集めた。
- なお十余万の兵と輜重七千余両があったが、すべて解散させて郷里へ帰した。張歩の三弟も各地で自ら縛されて獄に入り、詔でみな赦された。
- 張歩は安丘侯に封じられ、妻子とともに洛陽に住まわされた。
- この時点で琅邪だけはまだ安定しなかったため、帝は陳俊を琅邪太守に転じた。陳俊が境に入ると盗賊は散った。
- 耿弇はさらに城陽へ兵を進め、五校の残党を降し、斉地はことごとく平定された。耿弇は軍を整えて京師へ帰り、彼が平らげた郡は四十六、屠城三百に及び、生涯大きな挫折を味わわなかった。
太学の再興
- このころ初めて太学が起こされ、車駕が宮へ還ると太学にも幸した。古典にのっとって制度を定め、礼楽を整えたため、文物は明らかに整い、見るべきものとなった。
十一月以降:人事、北辺、隗囂との亀裂
- 十一月、大司徒伏湛が罷免され、侯霸が大司徒となった。
- 侯霸は太原の閔仲叔の名を聞いて辟召したが、招いた後は政務を相談せず、ただ労をねぎらうだけだった。閔仲叔は、招いたのに問わないのは人を失うことだと言って辞去し、弾劾状を投じて去った。
- 五原の李興、朔方の田颯、代郡の石鮪・閔堪らはそれぞれ兵を挙げて将軍を称し、匈奴単于は彼らと和親して盧芳を漢地へ戻し帝とさせようとした。十二月、盧芳は彼らとともに塞内へ入り、九原に都して五原・朔方・雲中・定襄・雁門の五郡を掠め取り、守令を置き、胡兵とともに北辺を苦しめた。
- 馮異は関中を三年治め、上林から成都に至るまで帰附する者が多かった。だが、ある者が上奏して、馮異の威権が重く、百姓が「咸陽王」と呼んでいると訴えた。
- 帝はその上章を馮異に示した。馮異は恐れて謝罪の上書をしたが、帝は、君臣であると同時に父子の恩で結ばれているのだから何を疑い恐れるのかと返書した。
- 隗囂は自らを飾り立てて知恵を誇り、たびたび自分を西伯になぞらえ、諸将と王を称する相談をした。鄭興は、文王ですら天下の三分の二を得てなお殷に仕え、武王も八百諸侯を率いながらすぐには伐たず時を待ったのだから、功も徳も及ばぬ今それを急げば禍を招くと諫めた。隗囂はいったん思いとどまった。
- その後も隗囂は官位を増設して自らを高めようとしたが、鄭興は、中郎将・太中大夫・使持節のような官は王者の器であって、人臣が勝手に設けるべきでないと諫め、隗囂もそれを苦々しく思って中止した。
- 関中の将帥がたびたび蜀を撃てると上書すると、帝はその書を隗囂に見せ、蜀を撃って忠誠を証明するよう求めた。
- 隗囂は、三輔はまだ弱く、北辺には盧芳がいて、今は蜀を謀るべき時ではないと盛んに述べた。帝はここで隗囂が両属を望み、天下統一を願っていないと悟り、次第に待遇を下げて正式な君臣の礼に戻した。
- それでも隗囂が馬援・来歙と親しいことから、帝はなお両者をたびたび往来させ、入朝すれば重爵を与えると誘った。隗囂は繰り返し使者を送り、功徳がなく四方平定の後に閭里へ退くべき身だと謙辞を重ねた。
- 帝はまた来歙に、子を入侍させるよう説かせた。隗囂は劉永・彭寵の滅亡を聞き、ついに長子隗恂を来歙に従わせて朝廷へ送った。帝は隗恂を胡騎校尉とし、鐫羌侯に封じた。
- 鄭興は隗恂に従って帰郷し、父母の葬を願い出たが、隗囂は許さず、かえって屋敷と禄秩を増して引き留めた。鄭興は、未葬の親を餌にして自分をつなぎとめるのは無礼だと面前で責め、妻子を留めてもよいから自分だけでも帰らせてほしいと願ったので、隗囂もしぶしぶ一家で東へ行くのを許した。
- 馬援も家族を引き連れて隗恂とともに洛陽へ帰り、従えてきた賓客が多いので上林苑で屯田させてほしいと求め、帝はこれを許した。
- しかし隗囂の将の王元は、天下の成敗はいまだ定まらず、今こそ天水の富強と険阻を生かすべきで、函谷関を丸い泥ひとつで封じることもできる、ここは持久して変を待つべきだと説いた。「魚は淵を離れれば生きられず、神龍も勢いを失えば蚯蚓と同じ」という言葉で、地の利を捨てる危険を強調した。
- 隗囂も内心これに傾き、子を人質に出した後も険阻を頼んで方面を専制しようとした。
- 申屠剛は、人が帰するところには天が与え、人が背くところからは天が去る、本朝はまことに天に福されているのであって人力ではないと諫めた。しかも皇帝はたびたび璽書を送り国を委ねるほど信任しているのに、なお逡巡するのは上に忠孝を負き下に当世に愧じることになると言ったが、隗囂は受け入れなかった。
- こうして遊士や長者は次第に隗囂のもとを去っていった。
交趾方面の服属と地方教化
- 王莽末以来、交趾方面の諸郡は境を閉ざして自守していた。
- 岑彭は旧交のあった交趾牧鄧讓に書を送り、国家の威徳を説き、偏将軍屈充には江南へ檄文を布かせ、詔命を伝えさせた。
- すると鄧讓をはじめ、江夏太守侯登、武陵太守王堂、長沙相韓福、桂陽太守張隆、零陵太守田翕、蒼梧太守杜穆、交趾太守錫光らが相次いで使者を送り、貢献した。朝廷はみな列侯に封じた。
- 錫光は漢中の人で、交趾で礼義をもって夷民を教化していた。
- 帝はさらに宛の人任延を九真太守に任じた。任延も農耕と婚姻を教えたため、嶺南に中華の風がひらけたのはこの二太守によるところが大きいとされた。
処士の召命と厳光
- この年、詔で太原の周党、会稽の厳光らの処士が徴された。
- 周党は京師に至っても伏して拝礼せず、自分の志を守りたいと述べた。
- 博士范升は上奏して、周党・王良・王成らは厚恩を受けてようやく来朝したのに、帝廷で無礼を働き、文武の実もないのに名声だけを釣って三公の位を望んでいると非難し、雲台の下で国政の道を試問すべきだと奏した。
- 帝は、古来の明王には賓として遇さぬ士があり、伯夷・叔斉が周の粟を食わなかったように、周党もまた朕の禄を受けぬ志があるのだとして、帛四十匹を賜い、帰らせた。
- 帝は若い頃に厳光と遊学の友であり、即位後その風貌をたずね求めてついに斉国で見いだした。度重なる徴召ののち来朝したが、諫議大夫を授けようとしても受けず、富春山で耕し釣って家で寿命を終えた。
- 王良は後に沛郡太守・大司徒司直などを歴任し、位にあっても倹約を守り、妻子を官舎に入れなかった。病で帰った後、また徴されて滎陽まで来たが、病篤く進めなかった。
- 旧友のもとを過ぎたとき、その友人は会おうともせず、忠言奇策もないのに高位を得て、往来にせかせかして煩をいとわないのかと言って拒んだ。王良は恥じて、その後は重ねての徴命にも応じず、家で没した。
西域の莎車王
- 元帝の時代、莎車王延は人質として京師にいて中国を慕っていた。王莽の乱で匈奴が西域をほぼ掌握したのちも、延だけは服属せず、子孫に対して代々漢家に仕えるよう言い残した。
- 延が死ぬと子の康が立ち、近隣諸国を率いて匈奴に抵抗し、旧都護の吏士やその妻子千余人を保護した。
- 康は河西へ檄を送り中国の情勢を問うたため、竇融は承制して康を漢の莎車建功懐徳王・西域大都尉に立てた。こうして西域五十五国がこれに属した。