資治通鑑漢紀 世祖光武皇帝 建武 四年 28年

正月・二月:行幸と延岑の再侵攻

  • 正月甲申、大赦。
  • 二月壬子、帝は懐に行幸し、壬申に洛陽へ帰還した。
  • 延岑が再び順陽を侵したため、鄧禹を派遣してこれを破らせた。延岑は漢中へ逃れ、公孫述は彼を大司馬に任じ、汝寧王に封じた。

田戎の去就

  • 田戎は秦豊の敗北を聞いて恐れ、降伏しようとした。
  • しかし妻の兄の辛臣は、彭寵・張歩・董憲・公孫述らの勢力図を示して、洛陽の地は手のひらほどしかなく見える、しばらく兵を休めて成り行きを見よと勧めた。
  • 田戎は、それほど強い秦豊でさえ征南大将軍岑彭に囲まれている以上、自分は降るほかないとして決意し、辛臣を夷陵に残して守らせ、自身は長江から沔水をさかのぼって黎丘へ向かった。
  • ところが辛臣は田戎の珍宝を盗み、間道を通って先に岑彭へ降り、田戎にも書を送って早く降れと勧めた。
  • 田戎は裏切りを疑って亀卜を行い、降伏の兆しが出たにもかかわらず、再び翻って秦豊と結んだ。岑彭はこれを破り、田戎は夷陵へ逃げ帰った。

四月:河北方面の平定

  • 夏四月丁巳、帝は鄴に行幸し、己巳には臨平に至った。
  • 呉漢・陳俊・王梁を派遣して臨平で五校を破らせた。
  • また鬲県では五姓の豪族が県の長吏を追放して城を拠して反した。諸将は攻撃しようとしたが、呉漢は、反乱の責は守長にあり、軽々しく攻めるなと命じた。
  • 呉漢は郡へ檄文を送り守長を捕えさせ、同時に城中の五姓へ詫びを入れた。五姓は大いに喜んで競って降り、諸将は、戦わずして城を下した手際に感服した。

五月:彭寵親征の中止、張豊討伐

  • 五月、帝は元氏・盧奴に行幸し、彭寵親征を企てた。
  • しかし伏湛が、兗・豫・青・冀という中原の中心地でなお賊が横行しており、辺外の荒廃した漁陽を先に図るのは、近きを捨てて遠きを求め、易きを棄てて難きに赴くことだと諫めた。
  • 帝はこれを容れて帰還した。
  • そこで建議大将軍朱祜・建威大将軍耿弇・征虜将軍祭遵・驍騎将軍劉喜を涿郡に遣わし、張豊を討たせた。
  • 祭遵が先着して急攻し、張豊を捕えた。張豊はもと方術を好み、ある道士に「石の中に玉璽がある」と五彩の袋に包んだ石を肘に結びつけられ、天子となる運命だと信じて反乱した人物だった。
  • 捕らえられて斬られる段になってもなお玉璽があると言い張ったが、そばの者が石を打ち割って何もないことが明らかになり、だまされたと知って、死に悔いはないと嘆いた。

耿弇と彭寵

  • 帝は耿弇に彭寵討伐を命じたが、耿弇は父の耿況が彭寵と同じく漢への功臣であり、兄弟も京師にいないことから、疑いを避けてひとまず洛陽へ出頭したいと願い出た。
  • 帝は、宗族を挙げて国に尽くした将軍に何の疑いがあるのかと詔してこれを退けた。耿況はそれを聞いて、かえって弟の耿国を入朝させた。
  • このころ祭遵は良郷、劉喜は陽郷に屯していた。
  • 彭寵は匈奴兵を引いてこれを襲おうとしたが、耿況の子の耿舒が匈奴兵を奇襲して二王を斬ったため、彭寵は退いた。
  • 六月辛亥、車駕は宮へ戻った。

夏秋:東方戦線の混乱

  • 秋七月丁亥、帝は譙に行幸した。
  • 捕虜将軍馬武と騎都尉王霸に垂惠の劉紆・周建を包囲させた。
  • 一方、董憲の将賁休が蘭陵で降伏したため、董憲は郯からこれを包囲した。
  • 蓋延と平狄将軍龐萌が楚にいて救援を請うたので、帝はまっすぐ郯を衝き、敵の必救を攻めよと命じた。
  • しかし蓋延らは賁休の城の危急を見て先に蘭陵へ向かった。董憲は迎え撃ってわざと敗れ、蓋延らが囲みを破って入城すると、翌日大軍で逆包囲した。
  • 蓋延らは恐れて城を突出して逃れ、その勢いで郯を攻めたが、帝が前もって危惧した通り、もはや董憲の包囲は解けず、郯も落とせなかった。その間に董憲は蘭陵を奪い返して賁休を殺した。

八月から十月:李憲包囲、侯霸の起用

  • 八月戊午、帝は寿春に幸した。
  • 揚武将軍馬成、誅虜将軍劉隆ら三将軍に、会稽・丹陽・九江・六安四郡の兵を発して李憲を討たせた。九月、舒で李憲を包囲した。
  • 王莽末の乱世に臨淮郡をよく保った侯霸が寿春に召され、尚書令に任じられた。朝廷にはこの時まだ先例が乏しく旧臣も少なかったため、侯霸は遺文を集め、前代の善政・法度を条奏して施行させた。
  • 冬十月甲寅、車駕は宮へ還った。

馬援、公孫述と光武帝を比較する

  • 隗囂は馬援を派遣して公孫述の様子を見させた。馬援と公孫述は同郷旧知で親しかったので、旧友らしく迎えられると思っていた。
  • だが公孫述は盛大な儀仗で迎え、宗廟で百官を会し、旧交ながら臣下の位置に馬援を立たせた。布衣や冠まで特製して与え、鸞旗や旄騎を備えた厳しい天子礼で出入りした。
  • 宴はきわめて華麗で、馬援に侯封と大将軍位を授けようとしたため、客たちは蜀に留まることを喜んだ。
  • しかし馬援は、天下の勝敗が定まらぬ今、国士を吐哺して迎え入れ共に成敗を図るのでなく、見かけばかり整えて木偶のように構える者に、どうして天下の士が長く留まろうかと諭し、辞して帰った。
  • 帰って隗囂に、子陽は井戸の中の蛙にすぎず、むやみに尊大で、東方の漢朝に専念する方がよいと告げた。
  • そこで隗囂は馬援に書を持たせて洛陽へ遣わした。
  • 馬援が初めて光武帝に会ったとき、帝は宣徳殿南廡の下で幘だけを着け、くだけた姿で笑顔により迎えた。
  • 帝は「卿は二人の帝の間を渡り歩いた。卿に会うとこちらが恥ずかしくなる」と言い、馬援は、君主が臣を選ぶだけでなく臣もまた君を選ぶものだ、自分は公孫述から大げさな天子礼で遇されたが、陛下は遠来の者を刺客かもしれぬと疑いもせず簡素に接した、と率直に述べた。
  • 帝は笑って、お前は刺客ではなく説客だと言った。
  • 馬援は、天下には名号を盗んで称帝称王する者が多いが、いま陛下に会ってみると、恢廓大度で高祖と同じ符を持つ真の帝王だと分かったと称えた。
  • この年、太傅卓茂が薨じた。

年末:秦豊包囲と蜀・隗囂

  • 十一月丙申、帝は宛に行幸した。
  • 岑彭は三年にわたり秦豊を攻め、首級九万余を挙げた。秦豊の残兵は千人ほどにすぎず、食糧も尽きかけていた。
  • 十二月丙寅、帝は黎丘に幸し、使者を送って秦豊を招降したが、秦豊は応じなかった。
  • そこで朱祜らに黎丘包囲を引き継がせ、岑彭・傅俊には南へ向かわせて田戎を討たせた。
  • 一方、公孫述は数十万の兵を集め、漢中に食糧を積み、十層の楼船を造り、天下の牧守の印章を多く刻ませた。そして李育・程烏に数万を率いさせ、陳倉に出て呂鮪と合流し、三輔を巡って取ろうとした。
  • 馮異はこれを迎え撃って大破し、李育・程烏はともに漢中へ逃げた。ついで呂鮪の営塁も破り、多くを降した。
  • この時、隗囂は兵を送って馮異を助けて功があり、その状を上奏した。帝は手書きで、将軍が南では公孫を防ぎ北では羌胡を防いでくれたため、馮異が少数で三輔に踏みとどまれたのであり、もし公孫述が漢中に進出するようなら三輔も将軍と旗鼓を共にしたい、と厚く報いた。
  • また自今後は手書きで直接連絡し、傍人の讒間を信じるなとも伝えた。
  • その後も公孫述がたびたび将を間道から出したが、隗囂はそのたび馮異と協力して撃退した。
  • 公孫述は隗囂に大司空・扶安王の印綬を授けようと使者を送ったが、隗囂はその使者を斬り、兵を出して蜀軍を撃ったため、蜀軍は以後北へ出にくくなった。

山東の安定化

  • 泰山の豪傑の多くが張歩と連合していたので、呉漢は陳俊を泰山太守に薦めた。陳俊は張歩の兵を破り、泰山を平定した。