正月:鄧禹の敗北と馮異の持久策
- 春正月、馮異が征西大将軍に任じられた。これは漢代に整えられた「四征」の将軍号の一つである。
- 鄧禹は大任を受けながら戦果が乏しいことを恥じ、飢えた兵を率いてたびたび赤眉軍を攻めたが勝てなかった。そこで車騎将軍鄧弘らとともに黄河を渡って湖に至り、馮異と合流して赤眉を討とうとした。
- 馮異は、赤眉はなお兵数が多く、すぐに決戦すべきでなく、恩義と信義で切り崩しつつ、諸将を澠池に置いて東を押さえ、自分が西から撃つのが万全だと説いた。
- しかし鄧禹・鄧弘は従わず、赤眉と終日戦った。赤眉はわざと敗走して輜重を捨て、その車に土を積み豆をかぶせておいたため、飢えた漢軍兵士は争って奪った。そこへ赤眉が引き返して反撃し、鄧弘軍は総崩れとなった。
- 馮異は鄧禹と兵を合わせて救い、いったん赤眉を退けたが、兵が飢え疲れているので休むべきだと進言した。鄧禹は聞かず再戦し、大敗して死傷者三千余にのぼった。
- 鄧禹は二十四騎で宜陽へ逃れ、馮異は馬を失って回谿阪を越え、麾下の数人とともに営へ戻って散兵を収め、ふたたび塁を固めて守った。
正月・閏月:宗廟の建立と赤眉への反攻準備
- 辛巳、洛陽に四親廟が建てられ、父の南頓君から舂陵節侯までが祀られた。天子の親廟四つという礼制に従った措置である。
- 壬午、大赦が行われた。
- 閏月乙巳、鄧禹は大司徒梁侯の印綬を返上したが、詔により梁侯印綬は返還され、右将軍に転じた。
馮異、崤底で赤眉を大破
- 馮異は赤眉と決戦の日時を定める一方、壮士に赤眉と同じ服装をさせて道ばたに伏せた。
- 翌朝、赤眉が一万人で馮異の前軍を攻めると、馮異はわずかな兵だけを出して救わせ、あえて弱く見せた。
- 赤眉はこれに乗じて全軍で襲いかかったが、馮異はそこから総攻撃に転じた。日が傾くころ赤眉の勢いが衰えたところへ伏兵が突然起き、服装も同じで敵味方の見分けがつかなくなり、赤眉は恐慌に陥った。
- 馮異は崤底で赤眉を大破し、男女八万人を降した。
- 光武帝は璽書で馮異をねぎらい、回谿で翼を垂れたように見えながら、最後には澠池で立て直したとして、その功を大いに賞する意を示した。「東隅で失ったものを桑榆で取り戻した」という言葉で、遅れて挽回した戦果を称えた。
赤眉の降伏
- 赤眉の残党は東へ向かって宜陽へ進んだ。甲辰、光武帝はみずから六軍を整えて待ち受けた。
- 赤眉は大軍に不意に遭遇して動揺し、劉恭を使者として降伏を求めた。劉恭が「盆子は百万の衆を率いて降る。どう遇するのか」と問うと、帝は「命は奪わない」と答えた。
- 丙午、劉盆子は丞相徐宣以下三十余人とともに上半身裸となって降り、伝国璽綬を献じた。集めた武器甲冑は宜陽城西に山のように積まれた。
- 赤眉の兵はなお十余万人いたが、帝は宜陽県の厨房に命じてすべて食事を与えた。翌朝には洛水のほとりに兵馬を大々的に展開し、盆子とその臣下に見せた。
- 帝は樊崇らに「降伏を悔いてはいないか。望むなら帰営して兵を整え、太鼓を鳴らして勝負してもよい。無理に服従させるつもりはない」と言った。
- 徐宣らは、長安を出たときから聖徳に帰する決意だった、民衆は事業の完成には協力できても創業にはつきあえないので密かに降ったのだ、と述べ、いまは虎口を離れて慈母に帰る心地だと答えた。
- 帝は徐宣らを、平凡な者の中では抜きんでた人物だと評した。
- 戊申、帝は宜陽から帰還した。樊崇らはそれぞれ妻子とともに洛陽に住まわされ、田宅を与えられた。後に樊崇と逢安は反して誅され、楊音・徐宣は郷里で生涯を終えた。
- 劉盆子は憐れまれて趙王良の郎中とされ、のち失明すると滎陽の均輸官地を賜って、その租税で終身養われた。
- 劉恭は更始帝の仇として謝禄を殺したのち自首したが、赦されて誅されなかった。
二月:劉永・張歩の動き、伏隆の殉節
- 二月、劉永は董憲を海西王に立てた。
- 劉永は伏隆が劇に来たと聞き、自らも使者を送り、張歩を斉王に立てた。張歩は王号に心を動かされて態度を決めかねた。
- 伏隆は、漢の祖宗は劉氏以外を王にしないと天下に約したのであり、張歩が得られるのは十万戸侯どまりだと説いた。張歩は伏隆を引き留めて青州・徐州をともに保とうとしたが、伏隆は受けず、帰朝を求めた。
- 張歩はついに伏隆を捕らえ、劉永の封号を受けた。伏隆は密使で上書し、自分のことは気にせず時機を見て進軍してほしい、もし賊の手で死んでも父母兄弟を陛下に累わせたくないと訴えた。
- 帝はその上奏を見て、父の伏湛に涙ながらに示し、まず許して帰還を求めなければよかったと悔いた。後に張歩は伏隆を殺した。
- この時、帝は北では漁陽、南では梁・楚の問題に追われていたため、張歩は斉の十二郡をほぼ専有するに至った。
青犢の討伐と人事
- 帝は懐に行幸した。
- 呉漢は耿弇・蓋延を率いて軹西で青犢を撃破し、これを降した。
- 三月壬寅、司直の伏湛が大司徒に任じられた。
幽州の乱:張豊・彭寵
- 涿郡太守張豊が反し、「無上大将軍」を称して彭寵と連合した。
- 朱浮は、皇帝みずから彭寵を征さないのを見て危ぶみ、救援を求めた。帝は、赤眉が飢えて東に来ると読んでその通りになったように、この反乱勢力も長くは保てず、内部から殺し合う者が出るはずだ、いまは軍資が不足するので麦が熟すのを待つのだと答えた。
- だが朱浮の城では食糧が尽き、人肉食まで起きた。折よく耿況が騎兵を送って救い、朱浮は薊城へ逃れたが、ついに彭寵に降った。
- 彭寵は燕王を称し、右北平・上谷の数県を奪い、匈奴に贈賄して援兵を求め、さらに南では張歩や富平・獲索の群盗とも結んだ。
南陽平定:鄧奉の最期
- 光武帝はみずから鄧奉を討ち、堵陽に至った。鄧奉は淯陽へ逃れ、董訢は降伏した。
- 夏四月、帝は小長安まで追撃して大勝し、鄧奉は上半身裸で朱祜を介して降った。
- 帝は鄧奉が旧功臣の一族であり、反乱の端緒も呉漢との不和にあったことから助命しようとした。
- しかし岑彭・耿弇は、鄧奉は一年にわたって反逆し、天子親征に及んでも悔悟せず、敗れて初めて降ったのだから、誅さねば悪を懲らせないと諫めた。そこで鄧奉は斬られ、朱祜は官位を回復した。
関中の群雄と馮異の平定
- 延岑は赤眉敗退後、関中に独自に牧守を任命して支配しようとした。この頃、関中では延岑・王歆・芳丹・蔣震・張邯・公孫守・楊周・呂鮪・角閎・駱延・任良・汝章らが各地に拠って将軍を称し、兵一万余から数千を抱え、互いに攻撃しあっていた。
- 馮異は崤谷の勝利の後、西へ進みつつ戦い、上林苑に屯した。
- 延岑は張邯・任良とともに馮異を撃ったが、馮異はこれを大破し、延岑側についた諸塁堡も相次いで降った。延岑は武関から南陽へ逃れた。
- 当時の関中は飢饉が深刻で、金一斤で豆五升にしかならず、道路も絶えて輸送も届かなかった。馮異軍は果実を食糧代わりにしていた。
- そこで帝は南陽の趙匡を右扶風に任じ、兵と縑・穀を送り馮異を助けさせた。兵糧が充実すると、馮異は命令に従わない豪傑を討ち、降った者や功ある者を賞し、諸営の渠帥をみな京師へ送って、その配下を本業へ帰した。こうして関中に威令が行き渡り、呂鮪・張邯・蔣震が蜀へ降ったほかは、ほぼ平定された。
広楽・睢陽方面の戦い
- 呉漢は驃騎大将軍杜茂ら七将軍を率い、広楽で蘇茂を包囲した。劉永の将周建が十余万を集めてこれを救った。
- 呉漢は迎撃したが不利となり、落馬して膝を傷つけて営に退いた。周建らはそのまま城へ入った。
- 諸将が主将負傷で軍心が動揺すると言うと、呉漢は奮然として傷を包み、自ら起き上がって牛を屠って兵をねぎらい、士気を倍加させた。
- 翌朝、蘇茂・周建が兵を出して呉漢を包囲したが、呉漢は奮戦して大破し、蘇茂は湖陵へ逃げた。
- 睢陽では反乱が起こって劉永を迎え入れたため、蓋延が諸将を率いてこれを囲んだ。呉漢は杜茂・陳俊を広楽に残し、自ら蓋延のもとへ赴いて睢陽包囲を助けた。
夏から秋:秦豊・延岑への対応
- 車駕は小長安から帰還し、岑彭に傅俊・臧宮・劉宏ら三万余を率いさせて南へ秦豊を討たせた。
- 五月己酉、車駕は宮城へ戻った。
- 乙卯晦、日食があった。
- 六月壬戌、大赦。
- 延岑が南陽を攻めて数城を得たが、建威大将軍耿弇が穰でこれを大破した。延岑は数騎で東陽へ逃れて秦豊と合流し、秦豊は娘を娶せた。
- 建義大将軍朱祜は祭遵らを率いて東陽で延岑を破り、延岑は秦豊のもとへ逃げ戻った。朱祜はそのまま南下して岑彭らと合流した。
- 延岑の護軍鄧仲況は陰県に拠り、劉歆の孫の孫龔がその参謀となっていた。前侍中の蘇竟が書を送って説得すると、鄧仲況と孫龔は降った。蘇竟はその功を誇らず、隠棲して道を楽しみ、家で寿命を全うした。
- 秦豊は鄧で岑彭を拒んだが、秋七月、岑彭はこれを破り、黎丘で包囲した。
- また積弩将軍傅俊を別働隊として江東へ派遣し、揚州はほぼ平定された。
劉永の滅亡
- 蓋延は睢陽を百日包囲した。劉永・蘇茂・周建は包囲を突破して鄼へ逃れようとしたが、蓋延が急追した。
- 劉永の部将慶吾が劉永の首を斬って降伏した。
- 蘇茂・周建は垂惠に逃れ、劉永の子の劉紆を立てて梁王とした。佼彊は西防に逃げて立てこもった。
冬:舂陵行幸と耿弇の北伐志願
- 冬十月壬申、帝は舂陵に幸し、祖先の園廟を祀った。
- 耿弇はこのとき、未動員の上谷兵を集めて北では漁陽の彭寵・涿郡の張豊を定め、西から富平・獲索を収め、さらに東では張歩を攻めて斉地を平定したいと申し出た。帝はその壮志を称えて許した。
- 十一月乙未、帝は舂陵から還った。
年末:李憲称帝、来歙を隗囂へ派遣
- この年、李憲が帝を称し、百官を置き、九城を領して十余万の兵を擁した。
- 帝は太中大夫来歙に、西州の隗囂がまだ服属しておらず、公孫述も帝を称していて道が遠く隔てられているが、諸将は関東平定に忙しく、西州への方略が定まらないと語った。
- 来歙は、長安で隗囂に会ったことがあり、彼は最初から漢を名目として起こした人物なので、誠意をもって説けばきっと自ら帰服し、公孫述も孤立するはずだと進言した。帝はこれをよしとし、来歙を隗囂のもとへ派遣した。
- 隗囂はすでに漢に功があり、鄧禹から爵位も受けていたので、腹心の多くも京師と通じるべきだと勧めた。そこで奏書を奉って朝廷へ送り、帝は格別の礼で応じ、名を字で呼ぶなど対等国の君主に近い扱いで厚く慰撫した。