資治通鑑漢紀三十 王莽 天鳳 五年 17年

正月 荊州牧費興の建言

  • 春正月朔、北軍南門が焼けた。
  • 王莽は大司馬司允の費興を荊州牧に任じ、赴任前に方略を尋ねた。費興は、荊揚の民は山沢に依って漁採で生きるのが常であるのに、六筦による山沢課税がその利益を奪い、加えて連年の旱魃で飢窮したため盗賊化したのだと述べた。
  • 赴任したら盗賊に帰郷を説き、耕具・牛・種子・食糧を貸し、租税を軽くして安集したいと進言したが、王莽は怒って彼を免官した。

官吏財産の没収と宗室事件

  • 官吏が俸禄不足のため不正蓄財を重ね、郡尹・県宰で家財千金に達する者が続出すると、王莽は始建国二年以来、匈奴問題を口実に辺境や諸軍の官吏・大夫以上で財産を増やした者を調査させ、家産の五分の四を没収して辺費にあてた。
  • 公府の属吏が駅伝で天下を巡って貪吏を糾察し、部下が上官を、奴婢が主人を告発することまで奨励したが、かえって姦悪は増した。
  • 王莽の孫である功崇公宗は、自ら天子風の画像と服装を作り、三顆の印まで刻んでいたことが発覚し、自殺した。
  • 宗の姉・妨は衛将軍王興の妻であったが、姑を呪詛し、婢を口封じに殺した罪で、王興とともに自殺した。

揚雄の死

  • この年、揚雄が死んだ。彼は成帝・哀帝以来、王莽や劉秀、董賢らと同時代に仕えたが、権勢者に取り立てられることなく、長く低い官位に留まった。
  • 王莽が帝位を奪ってのち、老臣として大夫に進んだが、勢利を求めず、古学と道を愛した。そこで文章によって後世に名を残そうとし、『太玄』を著して天地人の道を総合しようとした。
  • また諸子百家がそれぞれの知を誇って聖人を誹り、怪異で巧弁な説をもって世を乱すのを嫌い、『法言』を作って、問われればその規準に従って答えた。
  • 当時の人々は多く彼を軽んじたが、劉秀・范逡らは敬い、桓譚は比類ない人物と評した。鉅鹿侯芭も師事した。
  • 大司空王邑と納言厳尤が、揚雄の書は後世に伝わるかと桓譚に問うと、桓譚は「必ず伝わるが、あなた方も私もその名声が定まる時には立ち会えないだろう」と答えた。近くの人を軽んじ遠い昔の人を尊ぶのが世の常であり、揚雄の書は文義深く、しかも聖人に背かないから、諸子を越えるだろうと論じた。

樊崇・刁子都・匈奴情勢

  • 琅邪の樊崇は莒で百余人を率いて起兵し、太山方面の群盗がその勇猛さを慕って帰属した。一年ほどで一万余となり、同郡の逢安、東海の徐宣・謝禄・楊音らも兵を起こして数万を合わせ、樊崇を推して行動した。
  • 彼らは莒を攻めたが落とせず、青州・徐州のあいだを掠奪した。東海では刁子都も蜂起し、徐州・兗州を脅かした。王莽は郡国兵を動員して討とうとしたが、勝てなかった。
  • 匈奴では烏累単于が死に、その弟の左賢王輿が立って呼都而尸道皋若鞮単于となった。
  • 輿は賞賜を求めて大且渠奢や醯櫝王らを長安に遣わした。王莽は和親侯歙を送り返し、制虜塞で云や須卜当を会わせ、兵をもって云を脅し、須卜当を長安へ連れて来させようとした。
  • 云の幼い子は途中で逃れて匈奴に帰ったが、当自身は長安に到着し、王莽はこれを須卜単于に立てて、大軍を出して匈奴王位に送り返そうとした。しかし兵站は整わず、かえって匈奴の怒りを強め、北辺への侵入はますます激しくなった。