資治通鑑漢紀三十 王莽 天鳳 四年 16年

夏六月 明堂での封土授与

  • 夏六月、王莽は諸侯に対して明堂で改めて茅土を授けた。自ら文石の平に四色の土と菁茅を並べ、岱宗・泰社・后土・先祖・先妣に告げてから配分した。
  • 王莽は古制を慕って封爵を乱発したが、実際には土地を与える気は乏しかった。地理の整理がまだ終わっていないと称し、ひとまず象徴的な茅土だけを配って、封侯を喜ぶ者たちを慰めた。

秋八月 威斗と五均六筦

  • 秋八月、王莽は南郊に親祭したうえで、「威斗」と呼ぶ器物を鋳造した。五色の薬石と銅で北斗の形に作り、長さ二尺五寸ほどとし、兵乱を厭勝しようとした。
  • 完成後は司命に背負わせ、王莽が外出するときは先に立たせ、宮中に入るときは御座の脇に置いた。
  • また羲和命士を置き、五均六筦を監督させた。各郡に数人ずつ配し、多くは富商を起用した。彼らは駅伝を使って利益をあさり、郡県役人と結託し、帳簿を水増しして府庫を虚偽の数字で飾った。
  • 百姓の疲弊はますます進んだ。王莽はさらに六筦の法を細かく出し直し、条文ごとに禁令を設け、違反者は死罪にまで及ぶとした。
  • 姦民と猾吏がこぞって庶民を食い物にし、だれも安んじて暮らせなくなった。さらに上公以下で奴婢を持つ者からは、一人につき三千六百銭を徴収し、世の不満は深まった。
  • 納言の馮常が六筦を諫めると、王莽は激怒して免官した。
  • 法令は煩苛で、民は手を動かすたび禁令に触れた。耕作や養蚕も進まず、徭役は重く、旱魃と蝗害が続き、裁判は滞り、官吏は王莽の禁制を口実にさらに民を刻んだ。富者も身の潔白を保てず、貧者は生きるすべを失った。
  • こうして各地で盗賊が蜂起し、山沢に拠って互いにかばい合い、その勢力は次第に広がった。

各地の群盗蜂起

  • 臨淮では瓜田儀が会稽の長州に拠って起ち、琅邪では呂母が数千人を集め、海曲宰を殺して海中の盗となった。これは、彼女の子が県吏として冤殺されたことへの報復でもあった。
  • 呂母の衆はやがて万を超えた。
  • 荊州では飢饉がひどく、人々は野沢に入って鳬茈を掘って食べ、互いに奪い合った。
  • 新市の王匡・王鳳は当初、訴訟調停をして名を知られたが、やがて数百人を率いる渠帥となった。そこへ南陽の馬武、潁川の王常・成丹ら亡命者が合流し、離郷聚を攻め、緑林山に拠って数か月で七、八千人に膨れ上がった。
  • 南郡の張霸、江夏の羊牧らも王匡とともに挙兵し、いずれも万余の勢力になった。

王莽、盗賊赦免策に怒る

  • 王莽は使者を送り、盗賊を現地で赦して帰農させようとした。だが使者は、赦してもすぐまた群れ集まると報告した。
  • その理由として、法禁が煩苛で、働いても租税に足りず、閉門自守しても隣伍の者の鋳銭や銅所持の罪に連坐させられ、姦吏がそれを利用して民を苦しめるため、窮した者が皆盗賊になるのだと述べた。
  • 王莽はこれに怒って使者を免官し、逆に「民が驕って狡猾だから誅すべきだ」とか「天運のめぐりであり、やがて自然に滅ぶ」といった自分に都合のよい意見を述べる者を喜んで昇進させた。