資治通鑑漢紀三十 王莽 天鳳 六年 18年

改元構想と新楽

  • 春、王莽は盗賊の増加を見ると、太史に三万六千歳の暦紀を推算させ、六年ごとに改元する制度を布告した。
  • また自分が黄帝のように仙人となって昇天すべき存在であるかのように言い立て、民を惑わせて盗賊を解散させようとしたが、人々は笑うばかりだった。
  • このころ新作の音楽を明堂と太廟に献じた。

西南夷・匈奴対策の混乱

  • 更始将軍の廉丹は益州討伐を続けたが成功しなかった。益州夷の棟蚕・若豆らが起兵して郡守を殺し、越嶲でも大牟が叛いて官民を殺掠した。
  • 王莽は廉丹を召還し、大司馬護軍の郭興と庸部牧の李曅を新たに派遣して若豆らを撃たせた。
  • 太傅配下の羲叔士孫喜には江湖の盗賊を平定させた。
  • 一方、匈奴の辺寇は激しく、王莽は天下の丁男、死罪囚、吏民の奴まで徴募して「猪突豨勇」と名づけ、精鋭兵とした。
  • また天下の吏民の財産に三十分の一の税を課し、縑帛はすべて長安へ送らせ、公卿から郡県の黄綬官にいたるまで軍馬養育の責任を負わせた。
  • だが官吏はその負担を結局民に転嫁した。
  • さらに匈奴攻撃の奇策を持つ者を広く募り、適任なら破格の地位を与えるとしたため、「舟なしで大軍を渡河できる」「薬を服して三軍を飢えさせない」「一日千里飛んで偵察できる」など荒唐無稽な献策が万単位で集まった。
  • 王莽は実際に試験し、大鳥の羽根で翼を作って飛ばせる者まで現れたが、数百歩で墜落した。それでも名目だけは与え、車馬を支給して待機させた。

厳尤の諫言と范升の上奏

  • 王莽が須卜当を迎えようとした当初、大司馬の厳尤は、当は匈奴右部にあって中国に有利な情報提供者であり、長安に置けばただの一胡人に過ぎず、むしろ現地にいる方が利益が大きいと諫めた。王莽は聞き入れなかった。
  • 当を得た後、王莽は厳尤と廉丹に「徴」の姓を賜り、二徴将軍として単于輿を討ち、須卜当を立てるよう命じた。
  • しかし厳尤は、先に憂うべきは山東の盗賊であって、匈奴は後回しにすべきだと廷議で強く主張した。王莽は怒って彼を罷免した。
  • 代郡の范升は、大司空王邑に宛てて上書し、朝廷は天下の明らかな事実を見ず、公もまた聞こえないふりをしていると痛烈に批判した。
  • 遠方の異民族よりも、近くの民心離反を憂えるべきであり、春先に遠征を起こして農時を妨げれば、穀価は高騰し、吏民は湯火の苦しみに陥ると説いた。
  • そして、これを天下の倒懸を解く一言があるとしても、王邑は取り合わなかった。

田況の賞と韓博・巨毋霸事件

  • 翼平連率の田況は、郡県が民の財産申告を実数より少なく報告していると奏上した。王莽はそれを忠言として褒め、財産税三十分の一を再び課す口実にし、田況を伯に封して銭二百万を賜った。民衆は皆これを罵った。
  • 青徐では流民が郷里を捨て、老弱は道路で死に、壮者は賊に加わった。
  • 夙夜連率の韓博は、「巨毋霸」という長さ一丈、胴回り十囲の巨人が来たと上奏した。三頭立ての車にも載せられず、大車四馬で虎旗を立てて迎えるべきだと述べ、これは新室を助ける天意だと持ち上げた。
  • その実、韓博は「巨君」に対し「毋得覇」、すなわち簒奪をやめよと諷していた。王莽はこれを聞いて嫌い、巨毋霸を新豊に留めて「巨母氏」と改姓させ、自分が文母太后の符命で覇王になる証だとこじつけた。
  • 韓博は不当な言をしたとして下獄され、棄市となった。
  • 関東では飢饉と旱魃が重なり、刁子都らの勢力は六、七万にまで増えた。