資治通鑑漢紀三十 王莽 天鳳 三年 15年

春二月 黄山宮の流言と匈奴への使者

  • 春二月、天下に大赦が出された。このころ「黄龍が黄山宮の中に落ちて死んだ」という流言が広がり、万を超える人々が見物に走った。王莽はこれを不吉として嫌い、出所を取り調べたが、結局わからなかった。
  • 匈奴の単于・咸は、和親の証として漢に預けていた自らの子の遺体返還を求めた。王莽は使者を送ろうとしたが、単于の怨みで使者が害されることを恐れ、かつて「侍子を処刑すべきだ」と進言していた陳欽を別件の罪で殺した。
  • 王莽は済南の王咸を大使に選び、和親侯の歙らとともに匈奴へ派遣した。以前に斬られた侍子・登や、随員の貴人たちの遺体も返した。
  • 単于は使者を国境まで迎えさせた。王咸は王莽の威徳を説き、王莽も金や珍宝を多く贈って歓心を買い、匈奴の呼称を改めようとした。
  • その結果、匈奴を「恭奴」、単于を「善于」と呼ばせ、骨都侯当を後安公、当子男奢を後安侯に封じ、印綬も与えた。単于は贈物にひかれて表面上は従ったが、辺境への侵掠は以前どおり続いた。

王莽の煩雑な制度運営

  • 王莽は、制度を整えれば天下は自然に治まると考え、地理の再編、礼制、音楽、六経の学説の統合に没頭した。公卿は朝から晩まで議論を重ねても決まらず、訴訟や冤罪の処理は後回しになった。
  • 県令クラスの欠員が何年も正式補充されず、代行や兼任が常態化した。地方では貪欲で苛酷な役人がますます横行した。
  • 郡国に派遣された中郎将・繍衣執法や、十一公の配下の「士」たちは権勢をふるい、農桑督励や時令の伝達、諸章の査察を名目に各地を往来した。官吏や民衆の召集、証人の逮捕、賦斂が頻発し、賄賂が横行して善悪の区別も乱れた。
  • 関所では告訴が相次ぎ、王莽は自分が漢政を得たのも専権によると見ていたため、あらゆる事務を自ら抱え込んだ。官僚は完成した案件を受け取るだけで、責任回避に終始した。
  • 宝物庫や財貨、穀倉の管理は宦官に任せられ、上奏文もまず宦官が開封して王莽が直に見た。尚書は内容を知らされないこともあった。
  • 王莽は制度変更を好み、命令は多く細かかった。実務担当者は一つひとつ問い合わせなければ動けず、前後の案件が積み重なって混乱し、処理しきれなかった。夜通し灯火のもとで裁決しても追いつかず、尚書はこれに乗じて案件を握り潰した。
  • 奏上の返答を待つ者は何年も帰れず、郡県に拘束された者は恩赦があるまで出られないことも多かった。衛卒の交代が三年もない例があり、穀価は高騰、辺境二十余万の兵の衣食は官が負担し、とくに五原・代郡は深刻だった。
  • そのため数千人単位の盗賊集団が各地に生まれ、近隣郡へ広がった。王莽は孔仁を派遣して討たせ、一年以上かかってようやく鎮圧した。
  • また邯鄲以北では大雨による洪水が起き、深いところでは数丈に達し、数千人が流死した。

天変地異と俸禄再開

  • この年、春二月乙酉に地震があり、大雪も降った。関東でとくにひどく、深い所では一丈にも達し、常緑の竹や柏まで枯れる異常気象となった。
  • 大司空の王邑が地震を理由に辞職を願うと、王莽はこれを許さず、「地の動揺には害ある震と害なき動がある」と理屈をつけて取り繕った。『春秋』や『易』の句を引いて弁明したが、自己正当化の類であった。
  • これ以前、王莽は制度が未完成であることを理由に、公侯から小吏まで俸禄の支給を止めていた。
  • 夏五月、王莽は「陽九・百六の災厄」に遭って国用が不足し、人心も騒いだとして、これまで月々に布や帛をわずかに与えるだけだったと述べ、六月から官吏の俸禄を制度どおりに戻すとした。
  • 四輔以下を十五等に分け、最下位の僚は年六十六斛、最上位の四輔は一万斛とした。
  • さらに豊年には膳を充実させ、災害の年には官の食事も減らすとして、十一公・六司・六卿以下の俸禄も、その担当地域の被害に応じて減額する制度を設けた。
  • だが制度があまりに細かく実施不能で、地方官は結局まともな俸禄を得られず、官職を利用して賄賂や不正収受に頼るしかなかった。

長平館の河岸崩壊と対匈奴動員

  • 戊辰、長平館西岸が崩れて涇水を塞ぎ、水流が変わった。群臣はこれを「土で水を鎮める」という河図の兆しに結びつけ、匈奴滅亡の前触れだと上寿した。
  • 王莽はそれに乗じ、并州牧の宋弘、游撃都尉の任萌らに兵を率いさせ匈奴を討たせようとしたが、軍は辺境に到って屯しただけで終わった。

秋冬の災異と西南夷征討

  • 秋七月辛酉、長安の霸城門が焼失した。戊子朔には日食があり、天下に大赦が出された。
  • 平蛮将軍の馮茂は句町を攻めたが、軍中で疫病が流行して兵の大半を失い、民財の半分に及ぶ重税を徴発したうえで成果をあげられず、帰還後に獄死した。
  • 冬にはさらに寧始将軍の廉丹と庸部牧の史熊を派遣し、天水・隴西の騎士、広漢・巴・蜀・犍為の吏民十万人を徴発し、輸送要員を含めると二十万人規模で再び句町を攻めた。
  • 初めは首級数千を挙げたが、やがて兵糧輸送が途絶え、兵士は飢えと疫病に苦しんだ。王莽が廉丹・史熊を召し返そうとすると、二人はさらに徴発すれば勝てると主張し、戻ってまた重税を課した。
  • 就都大尹の馮英は、十年に近い西南夷戦争で費用は巨万にのぼり、僰道以南は山険しく毒気で兵の多くが死んでいるとして、増徴を拒んだ。兵をやめて屯田を行い、購賞で対処すべきだと上言した。
  • 王莽は怒って馮英を免官したが、のちにその言の正しさに気づき、長沙連率に再任した。
  • 粤嶲では蛮夷の任貴が太守の枚根を殺した。

王孫慶の解剖と西域遠征

  • 翟義の党である王孫慶が捕らえられると、王莽は太医・尚方・屠者に命じてその身体を解剖し、五臓の大きさを測らせ、竹の管で脈の流れを探らせて医術に役立てようとした。
  • この年、西域には大使・五威将の王駿、西域都護の李崇、戊己校尉の郭欽が派遣された。諸国は郊外まで出迎え、兵糧も提供した。
  • しかし王駿は彼らを襲おうと考えた。焉耆は降伏を装いながら兵を集めて備えた。
  • 王駿らは莎車・龜兹の兵七千余を率いて数隊に分かれて進み、郭欽と何封を後方に置いた。ところが焉耆は伏兵を用い、姑墨・尉犁・危須の兵も反間して味方に引き入れ、王駿らを襲って皆殺しにした。
  • 郭欽は後から到着し、焉耆軍の主力が不在なのを見て老弱を襲撃し、車師方面を経て塞内へ帰った。王莽は郭欽を填外将軍、何封を集胡男に封じた。李崇は残兵を集めて龜兹に立てこもった。王莽の敗亡後、李崇も西域に没し、西域との交通は絶えた。