資治通鑑漢紀二十九 王莽 天鳳元年 14年

春正月・巡狩計画の延期

  • 正月、天下を赦した。
  • 王莽は四仲月ごとに巡狩を行う計画を発し、太官に糒や乾肉を持たせ、内者に行在の幕・座具・臥具を準備させ、行路の郡県には供給負担をかけないとした。
  • しかし群公は、文母皇太后の喪がまだ新しく、皇帝の体調も戻っていないのに一年四度・万里の巡行は無理だと諫めたため、王莽はこれをいったん取りやめ、天鳳七年の実施を目標とし、翌年に洛陽へ遷都する方針だけを残した。
  • 平晏・王邑を洛陽に遣わし、宗廟・社稷・郊兆の造営予定地を定めさせた。

三月・日食と人事異動

  • 三月晦日、日食が起きたため、大赦が行われた。
  • 災異に応じるかたちで大司馬逯並を侯の朝位に退け、太傅平晏から尚書事を外し、苗訢を大司馬に任じた。

王莽政権の空気

  • 王莽は即位後、大臣への抑え込みを強め、下の権限を奪った一方で、あえて大臣の過失を言い立てる者を抜擢し、孔仁・趙博・費興らを重用した。
  • 国将哀章については、とくに閨門や郷里の親族まで監督させる「和叔」の官を置き、表向きの重臣であっても信任されていない様子がうかがえた。
  • 四輔・三公・十一公は総じて軽んじられ、その中でも哀章はとくに軽視された。

夏から秋・天変地異

  • 四月、霜が降って草木を枯らし、海辺で被害が大きかった。
  • 六月には黄色い霧が四方を塞ぎ、七月には大風が吹いて樹木を抜き、北闕と直城門の屋瓦を飛ばした。
  • さらに雹が降って牛羊を殺した。

州郡再編と地名改称の濫発

  • 王莽は『周官』『王制』にならって卒正・連率・大尹を置き、州牧・部監二十五人を設け、長安近辺の六郷にも帥を置いた。
  • 三輔は六尉郡に、河内・河東・弘農・河南・潁川・南陽も六隊郡に分けられ、河南大尹は保忠信卿と改名された。
  • 郡県・州境の改編はさらに進み、九州内で一二五郡、二二〇三県にのぼった。
  • また古代の六服になぞらえて惟城・惟寧・惟翰・惟屏・惟垣・惟藩の称を設け、天下を万国と総称した。
  • その後も年ごとに変更が重なり、一郡で五度も改名して元へ戻ることがあるほどで、吏民は記憶できず、詔書には旧名を併記せざるをえなかった。

匈奴との一時的和親

  • 匈奴の右骨都侯須卜当と伊墨居次雲は、和親を勧めて西河の虎猛制虜塞下に人を送り、和親侯王歙に会いたいと告げた。
  • 王莽は王歙とその弟王颯を匈奴に派遣し、単于即位を賀して黄金・衣被・繒帛を賜り、同時に侍子の王登の所在を問うとともに、陳良・終帯らの引き渡しを求めた。
  • 単于は陳良ら二十七人をすべて拘束して引き渡し、王莽はこれを「焚如」の刑で焼き殺した。

辺境の飢饉と軍縮

  • 北辺では大飢饉が起こり、人肉食にまで至った。
  • 諫大夫如普は巡察後、兵の長期駐屯で辺郡の負担が限界に達していると報告し、単于が新たに和親している今こそ撤兵すべきだと進言した。
  • 一方、韓威は新朝の威勢なら五千人で匈奴を平らげられると豪語し、王莽はその気概を壮として将軍に任じたが、結局は如普の建言を採り、辺境の諸将を召還し、陳欽ら十八人を免官とし、四関鎮都尉と屯兵も廃した。
  • ただし単于は外面だけ漢以来の礼を守りつつ、内心では掠奪を利としており、王登がすでに死んでいたことへの怨恨もあって、左地からの侵入は絶えなかった。
  • 使者が詰問しても、匈奴側は「烏桓と結んだ無頼の民が勝手に塞に入るだけで、中国の盗賊と同じだ」と言い逃れした。

西南夷の反乱

  • 王莽が軍屯のために再び兵を発すると、益州の蛮夷は苦しんでことごとく叛し、益州大尹程隆を殺した。
  • 王莽は平蛮将軍馮茂を派遣し、巴蜀・犍為の吏士を動員し、民から徴発して討伐させた。

新貨幣「貨布」「貨泉」

  • 王莽は金銀・亀貝の貨幣制度をあらためて出し直し、価値を多少増減したうえで大小銭を廃し、新たに貨布・貨泉の二品を並行させた。
  • しかし先に広く行われていた大銭を急に止めれば民が持ち続けると考え、向こう六年は大銭だけを行わせ、その後に廃止するとした。
  • 貨幣が変わるたびに民衆は生業を失い、しかも大半が刑罰に触れるようになった。