春二月・劉氏諸王の完全廃絶
- 二月、天下を赦した。
- 五威将帥七十二人が帰還して奏上したのち、公に落とされていた漢の諸侯王たちは、広陽王嘉・魯王閔・中山王成都の三人を除き、みな璽綬を上納して平民となった。
- この三人だけは、王莽に符命・神書・徳を称える上書を献じた功により、列侯に封じられた。
班固の論評に見る封建と郡県
- 周が同姓諸侯を広く封じて根本を固めたため長く続き、秦は皇帝を称しながら宗室を匹夫同然にして孤立したため短命に終わった、と後世の論が引かれる。
- 漢初は秦の孤立を戒めて諸侯を大きく封じたが、その後は勢力が過大となり、文帝・景帝・武帝の時代を経て分割・抑制が進んだ。
- 哀帝・平帝の頃には諸侯は枝葉化して弱くなり、漢朝そのものも短祚・断絶を重ねたため、王莽は内外ともに漢が衰え切ったと見て簒奪に踏み切った、という総括である。
五均・賖貸・諸税の実施
- 国師公劉秀が、周には不売品を官が買い上げ、欲する者に売る制度があったと述べ、理財と禁非を兼ねる政策だと説いた。
- 王莽はこれを受け、長安・洛陽・邯鄲・臨淄・宛・成都に五均司市・銭府官を置いた。
- 司市は四時の仲月ごとに物価の上中下を定め、穀・布帛・糸綿など売れ残った物は官が平価で買い上げ、価格が高騰すれば平価で放出した。
- 困窮者には銭府から貸し付け、毎月百銭につき三銭の利を取った。
- さらに、耕作しない田・樹芸をしない宅地・定職のない漂遊民には、それぞれ三夫の税や布を課し、山林川沢の採取者、畜牧者、婦人の養蚕織布、工匠・医巫卜祝・方技・商人らにも申告させ、利益の十分の一を貢として徴収した。虚偽申告には没収と労役を科した。
- 魯匡の進言で酒の専売も再開した。加えて、弩や鎧の私有を禁じ、違反者は西海へ流した。
匈奴・烏桓との関係悪化
- かつて王莽が出した四条の命令の後、護烏桓使者が烏桓民に対し、匈奴へ皮布税を納めるなと告げた。これに対し匈奴が徴税使を派遣すると、烏桓の豪族たちはこれを殺した。
- 単于は左賢王の兵で烏桓を攻め、多くの人民を殺し、婦女・子ども千人近くを連れ去って左地に置き、馬畜や皮布を持ってくれば返すと告げた。
- 烏桓が財物を持って身請けに行っても、匈奴は財物だけ受け取り、人は返さなかった。
五威将の匈奴派遣と印璽事件
- 五威将王駿ら六人が匈奴に到着し、厚い金帛を贈って、新朝が漢に代わった事情を説き、単于の旧印を新印と取り替えようとした。
- 旧印は「匈奴単于璽」だったが、新印は「新匈奴単于章」とされた。単于側では左姑夕侯蘇が印文を確認せよと警告したが、単于は結局旧印を差し出した。
- その夜、右帥陳饒は、翌日単于が印文変更に気づいて旧印返還を求めれば辱めになるとして、旧印を斧で打ち壊した。
- 翌日、匈奴側は案の定、漢印は「璽」で「章」ではなく、しかも「新」の字まで加わって臣下と区別がないとして旧印返還を求めた。使節は壊れた旧印を示して言い逃れし、匈奴側はやむなく引き下がった。
- 王莽は五威将らに爵を与え、印を壊した陳饒には特に功を認めて威徳子に封じた。
車師・西域の動揺
- 車師後王須置離は、新朝への供給負担を嫌って匈奴へ逃れようと図り、都護但欽に斬られた。
- 置離の兄である輔国侯狐蘭支は、置離の配下二千余人を率いて匈奴へ降り、単于の兵とともに車師を攻め、後城長を殺し、都護司馬を負傷させたのち、再び匈奴へ戻った。
戊己校尉部の叛乱
- 戊己校尉刁護が病んでいたとき、史の陳良・終帯、司馬丞韓玄、右曲候任商らは、西域諸国が背き、匈奴の侵攻が大きいので、このままでは死ぬだけだとして、校尉を殺して匈奴に降ろうと謀った。
- 彼らは刁護とその子・兄弟を殺し、戊己校尉部の吏士・男女二千余人を脅して連れ去り、匈奴へ入った。
- 単于は陳良・終帯にそれぞれ「烏賁都尉」のような称号を与えた。
冬十一月・劉氏宗廟の廃絶と劉姓剥奪
- 立国将軍孫建は、陳良・終帯が「廃漢大将軍」と称して匈奴に亡命したこと、さらに劉子輿と名乗る男が漢室復興を唱えたことを口実に、漢の宗廟を常安に置くべきでなく、諸劉も漢とともに廃すべきだと奏上した。
- 孫建はまた、安衆侯劉崇らの乱に続いて劉氏の反乱が繰り返されるのは、王莽が芽を早く絶たなかったからだと論じ、京師の漢廟を廃し、劉氏官人をみな罷免して自宅待機とするよう請願した。
- 王莽はこれを認めた。
- ただし、符命・上書・反乱告発などで王莽に功のあった劉龔・劉嘉ら三十二人と、その同宗には例外を設け、劉姓を取り上げて王姓を与えた。国師公劉秀だけは子女婚姻の関係から改姓を免れた。
孝平皇后への圧迫
- 定安太后となっていた孝平皇后は、劉氏が廃されて以来たびたび病と称して朝会に出ず、まだ二十歳にも満たなかった。
- 王莽はこれを憚りつつも、そのまま漢とのつながりを絶ちたくて、彼女を「黄皇室主」と改号し、あえて未婚女性のような立場に置いて漢から切り離そうとした。
- さらに孫建の世子王盛を華やかに装わせて医者として見舞いに向かわせたが、皇后は怒って侍者を鞭打ち、そのまま病を発して起き上がらなくなった。王莽も以後は無理強いしなかった。
十二月・対匈奴大遠征計画
- 十二月、雷が鳴った。
- 王莽は匈奴を威圧しようとして、単于の称号を「降奴服于」と改めた。
- さらに孫建ら十二将を諸道に分けて出し、偏裨以下百八十人を配し、天下の囚徒・丁男・甲卒三十万人を募って、海辺・江淮から北辺へ衣裘・兵器・糧食を運ばせた。
- 先着した者を辺郡に屯駐させ、準備完了後に一斉出撃し、匈奴を丁令の内へ追い込み、その国土と人民を十五に分け、呼韓邪単于の子孫十五人をそれぞれ単于に立てる構想を打ち出した。
年末・宝貨の新設
- 先の銭制が行き詰まったため、王莽は再び詔を下し、軽重大小に差等のある新しい「宝貨」を定めた。
- その内容は、銭貨六品、金貨一品、銀貨二品、亀貨四品、貝貨五品、布貨十品の計二十八品に及んだ。
- しかし、銅に連錫を交えて大量に鋳造したため、制度は複雑すぎて民衆は混乱し、貨幣は流通しなかった。