正月・王莽の即位と漢から新への改称
- 正月朔、王莽は群臣を率いて皇太后の璽綬を奉じ、符命に従うとして、漢の国号を除いて新を建てた。前年十二月にすでに改元と歳首の変更を行っていたが、これは正統と認めがたい措置として扱われている。
- 王莽は自らの妻を皇后とし、子の王臨を皇太子、王安を新嘉辟とした。すでに誅殺された長子王宇の子ら六人もみな公に封じた。
- 孺子嬰には定安公の号を与え、万戸・百里の封地を与えると称し、その地に漢の祖宗の廟を立て、周の後裔と並べて祭祀を続ける体裁を整えた。孝平皇后は定安太后とされた。
- 冊命の儀では、王莽は孺子嬰の手を取って涙を流し、周公になぞらえてやむをえず帝位に就くと演出したうえ、中傅に命じて孺子嬰を殿下に下ろし、北面して臣下の礼を取らせた。
新朝の重臣体制
- 王莽は「金匱」に基づくとして補佐役を封じ、王舜・平晏・劉秀・哀章を四輔とし、甄邯・王尋・王邑を三公、甄豊・王興・孫建・王盛を四将とした。
- このうち王興はもと城門令史、王盛は餅売りで、符命に合う姓名・容貌だとして抜擢され、神意にかなうことを示す道具とされた。
- この日、卿・大夫・侍中・尚書など数百人も一斉に任命された。
- 劉氏で郡守になっていた者はみな諫大夫へ移され、孺子嬰と定安太后の居所には門衛と監視を置き、乳母にも会話を禁じた。孺子嬰は隔離されて育てられ、成長しても家畜の名すら知らなかったという。のちに王莽は孫娘を娶せた。
官制・地名・爵位の全面改変
- 王莽は古制にならうとして官名を大きく改め、大司農を羲和、のち納言とし、大理を作士、太常を秩宗、大鴻臚を典楽、少府を共工、水衡都尉を予虞などとした。三公司卿・大夫・元士を整え、光禄勲らも「六監」と総称する上卿に改めた。
- 郡太守は大尹、都尉は大尉、県令・県長は宰とし、長楽宮を常楽室、長安を常安と改め、百官・宮室・郡県の名の多くを変えた。
- 王氏一族には服喪の親疎に応じて侯・伯・子・男・任の爵を与え、「睦」「隆」などの美称を号とした。
劉氏諸侯の降格と古帝王後裔の封建
- 王莽は、諸侯や四夷が「王」を称するのは古典に反するとして、漢の諸侯王三十二人をみな公に落とし、王子侯百八十一人も子へ降格した。のちにはさらに爵を奪った。
- さらに黄帝・少昊・顓頊・帝嚳・堯・舜・夏・商・周・皋陶・伊尹の後裔を探し出して公侯に封じ、それぞれの祭祀を奉じさせた。
王氏の祖先追尊と宗室編成
- 王莽は、自らを黄帝・虞舜の後と称し、陳胡公・田敬仲・済北王安を王号で追尊した。祖廟五、親廟四を立て、姚・媯・陳・田・王の五姓を宗室とし、代々徭役を免除するとした。
- 陳崇・田豊を侯に封じて陳胡王・田敬王の後を奉じさせた。
- ただし、州牧・郡守には、翟義・趙朋らの乱があったことを理由に警戒を命じつつも、劉氏には一代限りで従来の特典を保ち、高帝廟を文祖廟とし、京師の園寝・宗廟の祭祀は続けるようにした。
劉字忌避と貨幣制度改変
- 王莽は「劉」の字に卯・金・刀が含まれるとこじつけ、正月剛卯や金刀の佩飾を禁じた。
- さらに錯刀・契刀・五銖銭を廃して、小銭を新たに鋳造し、大銭と併用した。盗鋳を防ぐとして、銅や炭の所持まで制限した。
夏四月・劉快の挙兵
- 徐郷侯劉快が数千人を集めて挙兵し、即墨を攻めた。
- 兄の劉殷はもと膠東王で、王莽に扶崇公とされていたが、城門を閉ざして自ら獄につながれ、吏民とともに劉快を拒んだ。劉快は敗走し、長広で死んだ。
- 王莽は劉殷を赦し、その封地を万戸・百里に増した。
井田・王田・私属の布告
- 王莽は、秦が井田を壊して兼并が起こり、豪民が土地を奪い、奴婢まで牛馬同然に売買されるようになったと非難した。
- そこで天下の田を「王田」、奴婢を「私属」と改め、売買を禁じた。
- 八口に満たない家で一井以上の土地を持つ者には、余剰分を九族・隣里・郷党に分け与えるよう命じた。井田制に背く者は四裔へ流して魑魅を防がせると威嚇した。
秋・符命の全国頒布と五威将
- 秋、王奇ら十二人の五威将を派遣し、四十二篇の符命を天下に頒布した。王侯以下の印綬、官名を改めた者への新朝の印綬を授け、旧漢の印綬を回収した。
- 派遣は東の玄菟・楽浪・高句驪・夫餘、南の徼外・益州、西の西域、北の匈奴にまで及んだ。句町王は侯に落とされ、西域諸王も侯に改められた。匈奴単于の印も「璽」から「章」に変更された。
- 五威将は乾文車・坤六馬に乗り、鷩鳥の羽を負うなど仰々しい服飾で、各将に五帥を従えた。
冬・都城警備と各地の異変
- 冬、雷が鳴り、桐が花をつけた。
- 陳崇を司命とし、上公以下を監察させたほか、崔発らを中城・四関将軍として長安十二城門と繞霤・羊頭・殽・黽・汧・隴の要害を守らせた。みな五威の名を冠した。
- また諫大夫五十人を郡国に分派して鋳銭を進めさせた。
- この年、真定・常山では大雹が降った。