春:地震・残党平定・論功行賞
- 始初元年春、地震があり、天下に大赦が行われた。王邑ら東征軍が帰還し、西方で王級らと合流して趙朋・霍鴻を攻め、二月にこれを殲滅した。諸県も平定され、軍は凱旋した。
- 王莽は白虎殿で酒宴を開いて将帥を労い、陳崇に軍功を査定させた。周制になぞらえ、侯・伯・子・男の五等爵で功臣三百九十五人を封じた。関内侯に当たる者は名称を「附城」と改め、さらに数百人にも爵位を授けた。
- また翟義の父翟方進と先祖の墓を汝南で暴き、棺を焼き、三族を滅ぼし、同族・後嗣まで坑に埋めて棘と毒草を添えて葬った。翟義・趙朋・霍鴻の党徒の屍も各地の大道脇に積み上げ、標木を立てて反逆者として晒した。
- これにより王莽は自らの威徳がいよいよ盛んになったと思い、真の即位へ進む気持ちを固めた。
一族の進封と功顕君の死
- 群臣は、攝皇帝の子王安・王臨の爵位を公へ進め、兄の子王光を衍功侯に封じるよう奏し、認められた。
- この時、王莽は新都国へ帰還していたが、群臣はさらに王宇の子王宗を新都侯に封じるよう請願した。
- 九月、王莽の母功顕君が死んだ。王莽は自らを漢の大宗を奉ずる者として、天子が諸侯を弔う服制に準じた軽い喪服にとどめ、新都侯王宗に三年喪を主宰させた。
- ついで司威陳崇は、衍功侯王光が執金吾竇況に私的報復を依頼して人を殺させたと奏した。竇況がこれを捜査し法に付そうとすると、王莽は王光を厳しく責めた。王光の母が「お前は長孫・仲孫に比べてどうか」と罵ると、母子は自殺し、竇況も死んだ。
- 王莽はかつて母への孝養や兄嫁・甥への慈愛を名声にしていたが、ここでは逆に私情を捨てた公義を装い、王光の子王嘉に侯位を継がせた。
符命の続出
- この年、広饒侯劉京は斉郡の新井を、車騎将軍属の扈雲は巴郡の石牛を、太保属の臧鴻は扶風雍の石を、それぞれ符瑞として奏上した。王莽はみな受け入れた。
- 十一月甲子、王莽は太后に上奏し、漢は十二世・二百余年で厄運に当たり、自分は天命により居攝したのだと述べた。劉京の報告では、臨淄県昌興亭の亭長辛当が夢のお告げに従って見ると新井が現れていたという。さらに巴郡石牛や雍の石が未央宮前殿まで運ばれ、石前から銅符・帛図も得られたとされた。そこには「天告帝符、献ずる者は侯に封ず」といった文が記されていた。
- 王莽はこれを受け、今後は太皇太后・孝平皇后も「假皇帝」と称し、天下の奏事でも「攝」の字を用いず、居攝三年を改めて始初元年とし、漏刻も百二十度法に改めるよう請うた。さらに、孺子を成人したら周公のように政を返すつもりだと述べた。奏は許された。
- 世人はこれを見て、群公があらためて議を進めれば、王莽の即真への道が開かれると理解した。
張充の計画
- 期門郎張充ら六人は、王莽を劫して楚王を立てようと企てたが、発覚して誅された。楚王は宣帝曾孫の劉紆である。
哀章の金匱と即位準備
- 梓潼の哀章は長安で学んでいたが、品行が悪く大言壮語を好んだ。王莽の居攝を見ると、銅の匱を作って二通の文書を収め、一方を「天帝行璽金匱図」、一方を「赤帝璽某伝予皇帝金策書」と題した。そこには、高祖の霊が王莽に天下を伝えるとし、王莽の大臣八人と、王興・王盛らの名を借りて自分を含む十一人を輔佐として書き入れた。
- 哀章は斉井・石牛の話が朝廷へ届いたと知るや、その日の夕刻、黄衣を着て高廟へ赴き、匱を僕射へ渡した。僕射はこれを上聞した。
- 戊辰、王莽は高廟へ出向いて金匱を受け、神意による禅譲を受けたと称した。王者の冠をかぶって太后に謁し、未央宮前殿に戻ると、自らは黄帝・虞帝の後裔であり、漢高祖の霊も天命を奉じて自分へ金策を伝えたのだとして、ついに真の天子位につくと宣言した。国号は「新」とし、正朔・服色・犠牲・徽幟・器制を改め、十二月朔癸酉を始建国元年正月朔と定めた。
- 時刻は鶏鳴を一日の始めとし、土徳に合わせて黄色を尊び、犠牲は白を用い、節の旄幡もすべて純黄とし、「新使五威節」と名づけた。
伝国璽の奪取
- 王莽が即位しようとするとき、孺子にはまだ璽が授けられておらず、漢の伝国璽は長樂宮に蔵されていた。王莽がこれを請うても、太后は渡さなかった。
- 王莽は、太后が日ごろ信頼していた安陽侯王舜に説得させた。太后は激怒し、王氏一族は漢の恩により累世富貴となったのに、今や孤児寡婦に託された国を奪うのか、人として犬や豚にも劣ると痛罵した。さらに、自ら天命を称して帝位に就くなら新たな璽を作ればよく、亡国の不祥の璽など欲しがるなと言った。
- しかし王舜が、王莽はどうしても璽を必要としており、太后がいつまでも拒めるものではないと迫ると、太后は恐れて璽を地に投げつけ、「私はもう老いて死ぬだけだが、お前たち兄弟はやがて一族滅亡だ」と言って渡した。王舜が璽を持ち帰ると、王莽は大いに喜び、未央宮の漸台で太后のため酒宴を開き、大いに音楽を奏した。
太皇太后号の変更と王諫の死
- 王莽はさらに、太后の漢朝以来の尊号や璽綬まで改めたかったが、本人の反対を恐れた。
- そこへ疎遠な同族の王諫が迎合して、天が漢を廃して新を立てた以上、太皇太后は尊号を失うべきだと上書した。王莽はこれを太后に見せると、太后は怒りに任せて「その通りだ」と言った。王莽はこれを口実に、王諫を不徳の臣として殺した。
- ちょうど冠軍の張永が、太皇太后は新室の「文母太皇太后」となるべきだという符命の銅璧を献じたので、王莽は詔を下してその号に改め、張永を貢符子に封じた。