資治通鑑漢紀二十三 孝成皇帝 鴻嘉 二年 前19年

行幸と雉の異変

  • 春、成帝は雲陽・甘泉に行幸した。
  • 三月、博士が大射礼を行った際、飛んできた雉が庭に降り、階を登って堂上で鳴いた。さらに後日、太常・宗正・丞相・御史大夫・車騎将軍の府や、未央宮の承明殿の屋上にも雉が現れた。
  • 車騎将軍王音のもとにいた経術侍詔の寵は、雉は気を先に感じ取る鳥であり、この異変は宗廟と皇族をつかさどる官や宮中に対する強い警告であると上言した。高宗の故事にならえば、禍を福に転じることもできるが、君主が自ら戒めを受け止める必要があると説いた。

王音の直諫

  • その後、成帝は中常侍鼂閎を通じて王音に、「捕らえた雉の羽がかなり傷んでいたが、誰かが意図して放ったものではないか」と問わせた。
  • 王音は激しく反発し、そのような亡国の言葉を誰が献策したのかと非難したうえで、左右には阿諛の者が多く、自分がさらに媚びる必要はないと答えた。
  • さらに、今や即位十五年になるのに継嗣が立たず、帝は日々車を駆って外出し、その振る舞いの過失は京師以上に全国へ広まっている、外には微行の害、内には病の憂いがある、天はしきりに災異を見せて変化を促しているのに改めない、と率直に諫めた。
  • 王音は、賢者の助言を求め、自らを抑えて礼に復すなら、継嗣を立て、災異もなお消しうると説いた。

昌陵造営の開始

  • もともと元帝は渭陵について倹約を守り、陵邑のために民を移さなかった。ところが成帝は初陵を起こし、数年後に覇陵の曲亭南方へ移して、改めて大規模に営造しようとした。
  • 将作大匠の解万年は、陳湯に奏請文を書かせ、初陵のために民を移して邑を造ることを願い出た。陳湯自身も先に移住して良田や宅地を得たいと望み、帝はこれを許したため、昌陵邑が実際に築かれることとなった。
  • 夏、郡国の豪傑で資産五百万以上の者五千戸を昌陵へ移住させた。
  • 五月、杜郵に隕石が落ちた。

諸侯王の封建

  • 六月、中山憲王の孫である劉雲客を広徳王に立てた。
  • この年、城陽哀王劉雲が子なくして死に、その国は除かれた。