資治通鑑漢紀二十三 孝成皇帝 鴻嘉 四年 前17年
黄河の氾濫
- 秋、勃海・清河・信都で黄河が氾濫し、三十一の県邑を水没させ、官亭や民家四万余戸を破壊した。
- 平陵の李尋は、かねてから九河の旧道を探して開削しようという議論があったが、いま河が自ら決壊した以上、すぐには塞がず、水勢を観察すべきだと奏した。河が留まりたい場所に留まれば、やがて自然に川筋ができ、砂土が吐き出された後に天意に従って処置すれば、費用も少なくて済むと説いた。
- 朝廷はこの意見を採り、ひとまず塞がなかった。
- それでも百姓の困窮は深く、朝臣はしばしば救済を言上したため、成帝は使者を遣わし、安住と生活再建のための救恤を行わせた。
広漢鄭躬の乱の鎮圧
- 広漢の鄭躬の党はしだいに勢力を広げ、四県を犯してその衆は一万人近くに達し、州郡では制圧できなかった。
- 冬、河東都尉の趙護を広漢太守に任じ、広漢・蜀郡から合わせて三万人を発して討たせた。賊徒のうち互いに捕縛・斬首した者は本罪を赦す措置もとられ、十日ほどで平定された。
- 趙護は執金吾に昇進し、黄金百斤を賜った。
王譚の死と王商の復権
- この年、平阿安侯王譚が死去した。
- 成帝は、王譚を退けたために政務を補佐させないまま死なせてしまったことを悔やみ、成都侯王商を再び登用した。
- 王商には特進として城門兵を領させ、幕府を置き、将軍のように属吏を推挙する権限も与えた。
杜鄴の和解策
- 魏郡の杜鄴は郎であり、もとより王音と親しかった。王音と平阿侯に隙があったことを知ると、王音に対し、近親であるのに特別の扱いを受けなければ怨みが生じるのは当然だと説いた。
- そして、秦景公が母弟を容れられず『春秋』に譏られた例と、周公・召公が分陝して互いに補い合った例とを挙げ、王商を帝の意に従って優遇し、議事ごとに必ず参与させるべきだと勧めた。
- 王音はその言を非常に喜び、ここから王商と親密になった。二人はともに杜鄴を重んじた。