資治通鑑漢紀二十三 孝成皇帝 永始 元年 前16年

宮中の火災と趙婕妤の立后工作

  • 春正月、太官と凌室が焼け、ついで戾后園の南闕にも火災があった。
  • 成帝は趙婕妤を皇后に立てたいと望んだが、皇太后はその出自の低さを嫌って強く難色を示した。
  • 皇太后の姉の子である淳于長は侍中として東宮に出入りし、長く口添えを続けて、ようやく太后の内意を取りつけた。

劉輔の諫争

  • 夏四月、成帝はまず趙婕妤の父趙臨を成陽侯に封じた。
  • これに対し、諫大夫の河間の劉輔が上書し、季世で継嗣もなく災異が重なる時に、卑賤の女を皇后にして天下の母としようとするのは、天にも人にも恥じる大きな迷いだと痛烈に批判した。巷間でも「腐った木は柱にならず、婢の出の者は主となれない」と言っているほどだと述べた。
  • 成帝は侍御史を遣わして劉輔を逮捕し、掖庭の秘獄に繋いだ。

大臣たちの救諫

  • 劉輔が収監された理由を誰も知らないなか、左将軍辛慶忌・右将軍廉褒・光禄勲師丹・太中大夫谷永の四人がそろって上書した。
  • 彼らは、劉輔は宗室の近親であり諫臣でもあって、地方から出てきたばかりで朝廷の機微を知らず、ただ禁忌に触れただけかもしれない、もし大罪なら公開の法廷で治すべきで、いま天心も穏やかでなく災異が続く時に、諫争の臣へ惨急な刑を加えるのは、群臣の忠直の心を傷つけると訴えた。
  • 成帝はそこで劉輔を共工獄へ移し、死罪を一等減じて鬼薪とした。

王莽の封侯

  • このころ、太后の兄弟八人のうち、王曼だけが早く死んで侯に封じられていなかった。太后はその未亡人渠に同情し、東宮で養っていた。王曼の子の王莽は幼くして父を失い、他の王氏一門の子弟に比べて地位も境遇も劣っていた。
  • 一方、兄弟たちは富貴に任せて車馬・声色・遊蕩を競ったが、王莽は自ら節を折って恭倹を装い、よく学び、儒生のような服装をし、母や寡嫂、孤児となった兄の子によく仕えた。
  • 外では英俊と交わり、内では諸父に礼を尽くし、大将軍王鳳が病んだときには衣帯も解かずに看病して、薬を自らなめて確かめた。王鳳は死に臨んで王莽を太后と帝に託した。
  • こうして王莽は黄門郎から射声校尉へ進み、やがて叔父の成都侯王商の請願と、戴崇・金渉・陳湯ら名士の推挙、さらに太后の度重なる言上によって、五月に新都侯へ封じられた。
  • その後も騎都尉・光禄大夫・侍中となり、宿衛に勤めた。爵位が上がるほどますます謙遜を装い、輿馬・車服を賓客に分け与え、家には余財を残さず、名士を援助し、将相卿大夫と広く交わったため、在位の者は競って彼を推薦した。
  • ただし、その名声獲得には作為も多く、たとえば買った侍婢を、子ができそうだと聞いた後将軍朱博へその日のうちに贈って恩を売るなど、ひそかに名を求める振る舞いが見られた。

趙皇后の成立と昭儀の奢侈

  • 六月、趙氏が皇后に立てられ、天下に大赦があった。
  • 皇后は立后後しだいに寵愛がやや衰え、代わってその妹が絶大な寵を受け、昭儀となって昭陽宮に住んだ。
  • 昭陽宮は、中庭を朱で塗り、殿上に漆を施し、門限や覆い金具は銅に黄金を塗り、階は白玉、壁の横木には黄金の環状飾りを設け、その中に藍田の玉璧・明珠・翡翠の羽を嵌めるという、後宮に未曾有の豪華さだった。

趙氏姉妹の専横と劉向の著述

  • 趙皇后は別館に住んで多くの侍郎や宮奴と通じたとされ、昭儀は、もし姉が人に陥れられたら趙氏は絶えてしまうと涙ながらに帝に訴えた。帝はこれを信じ、皇后の姦状を告発する者がいればすぐに殺したため、皇后は公然と淫恣を重ねても誰も言えなかった。もっとも、結局子はなかった。
  • 光禄大夫劉向は、教化は後宮から外へ及ぶものだとして、『詩』『書』の賢妃・貞婦、また嬖幸によって国を乱した例などを集めて『列女伝』八篇を編み、さらに『新序』『説苑』五十篇を著して献じた。しばしば上疏して得失を論じ、法戒を陳べて帝の観覧を助けようとした。帝は十分には用いなかったが、その言は内心で評価していた。

劉向の昌陵批判

  • 昌陵は制度があまりに奢大で、長く完成しなかった。劉向は上疏し、歴代の聖王や賢臣・孝子はみな薄葬を守り、黄帝・尭舜・禹湯・文武周公の墓も小さく簡素であったこと、孔子や延陵季子ですらそれに従ったことを詳しく述べた。
  • これに対し、秦始皇の驪山陵は極端な厚葬であり、天下はその役に苦しみ、工事未成のうちに反乱を招き、のち項羽の焼討ちや牧童の失火で損なわれた、として、徳の厚い者ほど葬りは薄く、無徳無知の者ほど墓を高大にするのだと論じた。
  • 成帝も即位当初の初陵は小規模で天下の賞賛を受けたのに、昌陵へ移してからは低地を高くし、積土を山とし、民墓を数万単位で暴き、邑居を急造して労費は莫大となり、死者は地下で恨み、生者は地上で愁える、と厳しく非難した。
  • また、もし死者に知があるなら墓を暴く害は大きく、知がないなら大構築に意味はない、賢者は喜ばず民は苦しみ、ただ奢侈な愚人を喜ばせるだけだとして、初陵の規模に戻すよう求めた。

昌陵中止

  • 成帝は劉向の言に感じ入り、しかも解万年が「三年で成る」と豪語したのに実現できず、群臣にも不便だとする者が多かったので、有司に審議させた。
  • 議では、昌陵は客土を盛って高くしたため幽冥の安定に乏しく、寝殿や司馬門もまだ整わず、巨万の人夫を昼夜油火で働かせ、東山の土の価格は穀物並みに高騰し、天下が広くその労苦を被っているとされた。
  • これに対し、旧陵は自然の地勢に拠り、真土の高敞な地にあり、祖考の陵にも近く、すでに十年の工事の蓄積もあるから、元の陵に戻って民を移さないのがよいと結論した。
  • 秋七月、成帝は詔を下し、自らの過失を認め、「過ちを改めないことこそ真の過ちである」として、昌陵をやめ、旧陵にも吏民を移さず、天下に動揺を与えないよう命じた。

蕭何後裔の再封

  • 初め、蕭何の子孫で鄼侯を継いだ者は、無子や罪によってたびたび絶祀し、高后・文帝・景帝・武帝・宣帝が、そのつど支庶から継がせてきた。
  • この年、七世孫の鄼侯蕭獲が奴に人を殺させた罪で、死刑を減じて髠刑のうえ城旦とされた。
  • 以前から成帝は漢初功臣の子孫を探させていたが、なかなか録用が進まなかった。杜業は、唐虞三代以来、諸侯を封じて太平を成したのだから、漢の功臣の子孫が道に流れ、奴隷同然となっているのは悲しむべきことであり、せっかく後裔探索の詔を出したのに、数年たっても実行しないのでは恩徳を吝嗇に見せるだけだ、少なくとも功の特に大きい者から継封すべきだと説いた。
  • 成帝はこれを容れ、癸卯、蕭何の六世の孫で南䜌長の蕭喜を鄼侯に封じた。

その他

  • 城陽哀王の弟の劉俚を城陽王に立てた。
  • 八月、太皇太后王氏が崩じた。これは宣帝の皇后王氏である。
  • 九月、東萊で黒龍が現れ、その月の晦日には日食があった。
  • この年、南陽太守の陳咸が少府となり、侍中淳于長が水衡都尉となった。