資治通鑑漢紀二十三 孝成皇帝 永始 二年 前15年

王音の死と人事

  • 春正月、安陽敬侯王音が死去した。王氏一門の中では、王音だけがよく身を整え、しばしば諫めて忠直の節を見せた人物だった。
  • 二月癸未の夜、星が雨のように降り、地に至る前に光を曳いて消えた。さらに乙酉の晦日には日食があった。
  • 三月、成都侯王商が大司馬衛将軍となり、紅陽侯王立は特進として城門兵を領した。
  • 京兆尹の翟方進が御史大夫となった。

谷永の大諫

  • 涼州刺史となっていた谷永が、京師での奏事を終えて任地へ向かうにあたり、成帝は尚書に命じて、言い残したいことがあれば聞き取らせた。
  • 谷永は、国家の危亡の事実よりも、その危亡を告げる言葉が上聞しないことこそ問題だと前置きし、昨年九月の黒龍、今年二月の星隕と日食という大異が半年に四度も起こったのは、三代末や春秋の乱世にも見ないことだと述べた。
  • そして、三代が社稷を失ったのは婦人と群悪に沈湎したためであり、秦が短命に終わったのは生前の奢侈と死後の厚葬のためであって、その二つをいま陛下は兼ねていると厳しく指摘した。

後宮・刑政・微行への批判

  • 谷永はまず、建始・河平のころの許氏・班氏の栄華ですら極まっていたのに、今の新興の後宮勢力はその十倍に達し、先帝以来の法度を廃し、その言を聞き入れて、本来王法で誅すべき者まで放免し、その親族に権威を仮して横行させ、刺史・監察の官も誰ひとり法を奉じられないと述べた。
  • また、掖庭獄が乱れた陥穽となり、拷問は炮烙にも比すべく、趙氏・李氏への恩返しや怨み晴らしのために無辜を多数収監し、白を黒にし正吏を罪に陥れ、さらには人の名を借りて貸付や分利を行い謝礼を受けるなど、死傷者は数え切れないと非難した。
  • さらに成帝自身について、万乗の尊位を捨てて家人のような卑賤な楽しみを好み、匹夫の仮名で呼ばれることを喜び、軽薄な小人を私客として集め、しばしば深宮を離れて夜昼道上にあり、群小とともに民家で飲み騒ぎ、服装を乱し、卑猥で節度なく、禁中を守る臣下は空宮を守るだけとなり、公卿百僚は帝の所在すら知らぬ年が積もったとまで言った。

昌陵造営の失政への批判

  • 谷永は、王者は民を本とし、財を尽きさせれば民は離反し、上は亡ぶと説き、成帝が民力・民財を軽んじ、初陵の高敞な地を捨てて昌陵へ移し、役夫百倍・費用は驪山に比しうるほどにして天下を疲弊させたと攻撃した。
  • そのため百姓は愁恨し、天は飢饉を続け、流民・浮食の民は路上で餓死し、その数は百万に及ぶ、公家には一年の蓄えもなく、民にも旬月の備えすらないとした。
  • そのうえで、漢は九世百九十余年、七代の継体の主はおおむね祖法を守ったのに、陛下だけが道に背いて継嗣もなく、危亡の憂いを積み上げている、もし昭然と悟って自ら改めれば、なお災異を消し天命を取り戻しうると結んだ。

成帝の反応と谷永救済

  • 成帝はもともと寛仁で文辞を好んだが、宴楽に溺れていた。この問題を皇太后と諸舅はかねて深く憂えていたが、至親ゆえに直接数々の諫言をしにくく、谷永らをして天変に託して切諫させていた。
  • 谷永も内々の支えがあることを知っていたため、遠慮なく意見を尽くし、上書するたびに礼をもって応答を受けていた。ところが今回の上対はあまりに急で、成帝は大いに怒った。
  • 衛将軍王商は密かに谷永を促して京師を去らせ、成帝は侍御史を遣わして逮捕させようとしたが、御史が交道厩に着く前に谷永はすでに行ってしまい、成帝もやがて気が解けて、自ら後悔した。

酒宴での班伯の諫言

  • 成帝は張放や趙・李の諸侍中と禁中で宴飲し、満杯の杯をあおっては合図し、大笑いしていた。帳座の屏風には、紂王が妲己とともに長夜の酒楽にふける図が描かれていた。
  • 侍中光禄大夫の班伯は病から起きたばかりでその場にいた。成帝が「紂の無道は本当にここまでだったのか」と問うと、班伯は、『書』にいう「婦人の言を用いた」とあるだけで、朝廷でかくも踞坐していたわけではない、むしろ世の悪が集中して描かれているのだと答えた。
  • そして、微子が去ったのも、詩が昼を夜とする流連を嘆くのも、すべて酒の乱れが根本だと説いた。
  • 成帝は「久しく班生に会わなかったが、今日また正論を聞いた」と嘆息した。張放らは不快となって退出した。

太后の介入と張放左遷

  • 長信宮の林表がこの光景を伝えると、成帝が東宮に朝した際、太后は泣いて、帝の顔色がやせ黒ずんでいる、班伯は王鳳が挙げた人物なのだからもっと寵遇し、同類を求めて徳を補わせるべきだ、また富平侯張放は国に就かせるべきだと言った。
  • 成帝は承諾し、諸舅も丞相・御史を諷して張放の過失を求めさせた。
  • 丞相薛宣と御史大夫翟方進は、張放が驕慢放縦で、使者を門前で拒み、奴に無辜の者を傷つけさせ、従者や支属も権勢をかさに暴虐を行っているとして、その爵を除いて国へ就かせるよう奏した。
  • 成帝はやむなく、張放を北地都尉へ左遷した。
  • その後も災変がしばしばあったため、張放は長く帰京できなかったが、成帝は璽書で絶えず労問した。母の敬武公主が病むと、勅で呼び戻して看病させ、数月後に病が癒えると、再び河東都尉として出した。帝は張放を愛したが、太后と大臣に押され、いつも涙ながらに送り出した。

薛宣罷免と翟方進の拜相

  • 卭成太后の葬礼の際、事が急だったため、吏が民から倉卒に賦斂して費用を整えた。成帝はこれを聞いて、丞相と御史の過失とした。
  • 冬十一月、薛宣は策免されて庶人となり、翟方進も執金吾へ左遷された。
  • しかし二十日あまりで丞相が空席になると、群臣の多くが翟方進を推し、成帝もその才能を重んじて、十一月壬子、翟方進を丞相に抜擢し、高陵侯に封じた。
  • 諸吏散騎で光禄勲の孔光が御史大夫となった。

翟方進と孔光

  • 翟方進は経術で進み、吏としては法律運用が峻烈で、権勢を用いて威を立てることを好み、忌み嫌う者には厳文深詆で中傷することが多かった。私意を挟み不公平だという声もあったが、成帝は、科目に応じて推挙された者である以上、これを非とはしなかった。
  • 孔光は孔霸の末子で、尚書を領して枢機を掌って十余年、法度を守り旧事を修め、帝に問われれば経法に拠って心安んずるところを答え、意を迎えて迎合することはなかった。従わなくても強く諫争はせず、そのため長く安泰であった。
  • また、奏章の草稿は必ず削って残さず、君の過失を書として残すことを避けた。推薦した人材にもそれを知らせず、沐日帰休して家族とくつろぐときでさえ朝政を語らず、温室殿の木が何の木かと問われても答えなかったほど秘密保持が徹底していた。

雍の五畤・陳湯・淳于長

  • 成帝は雍に行幸して五畤を祀った。かつて廃した雍五畤や甘泉・秦畤の祭祀も、継嗣がないため再興していた。
  • 衛将軍王商は陳湯を嫌っていた。陳湯が、昌陵はまた民を移すことになるだろうとか、黒龍の冬の出現は微行多発の応報だとか発言したためである。
  • 廷尉は、陳湯が言うべきでないことを語って大不敬にあたると奏したが、成帝は郅支単于討伐の功を考慮して、庶人に免じ、辺地へ移した。
  • 一方で、趙皇后立后に尽力した淳于長には成帝が恩を感じ、昌陵中止に先立って諫めた前功を持ち出して封爵を議した。光禄勲平当は、善言があってもそれだけでは侯に封ずる基準にならないとして反対し、左遷されて鉅鹿太守となった。
  • 成帝は結局、常侍王閎と衛尉淳于長が最初に優れた策を建てたとして、二人に関内侯の爵を賜った。
  • また、将作大匠解万年は佞邪不忠で、民に毒を流したとして、陳湯とともに燉煌へ流された。

翟方進による政敵排除

  • 少府陳咸と衛尉逢信は、官歴の簿籍では翟方進より上位であり、方進は京兆尹時代には陳咸と親しかった。
  • だが御史大夫の選任では方進が勝ち、さらに薛宣事件で方進・陳咸らが連座審問を受けた際、陳咸は方進を厳しく詰責して自分の立場を良くしようとしたため、方進はこれを恨んだ。
  • また陳湯は王鳳・王音に重んじられ、陳咸・逢信も彼と親しかった。王商が陳湯を黜逐すると、翟方進はこれに便乗して、陳咸・逢信が陳湯に付会して推薦を求めた、恥を知らないと奏し、二人を免官に追い込んだ。

朱博の左馮翊就任

  • この年、琅邪太守朱博が左馮翊となった。
  • 朱博は郡治にあたり、各県ごとにその土地の豪傑を大吏に起用し、文武それぞれの適性に応じて使った。劇賊や非常事態があれば、すぐ移書して責任を迫り、力を尽くして成果があれば厚賞し、虚偽や不称があればただちに処罰したので、豪強は震え服し、事務はよく整った。