資治通鑑漢紀二十二 孝成皇帝 建始 四年 前29年
春正月 隕石・宦官整理・尚書増員
- 春正月癸卯、亳に一つ、肥累に四つの隕石が落ちた。
- 中書の宦官機構を廃し、新たに尚書五人を置いた。これは石顕失脚後、中書令の系統を解体して政務を尚書へ移したものである。
三月 王商が丞相に
夏 白虎殿での対策と谷永の上奏
- 夏、以前に推挙された直言の士たちを白虎殿に集めて対策させた。
- 当時、帝は政務を王鳳に委ねており、議者の多くは災異の責任を王鳳に帰していた。
- 谷永は、王鳳がまさに権柄を握っていることを見て、表向きは災異を政事に帰すべきではないとし、王鳳ら大臣は忠勤であって、陛下が明白な事実を捨てて曖昧な説に従ってはならないと論じた。
- そのうえで、後宮の偏愛を解き、多くの婦人を入れて継嗣を得るべきだと勧めた。
- 杜欽の議論も同趣旨で、帝はこれらの奏書を後宮に示し、谷永を光禄大夫に抜擢した。
気候異変・黄河決壊の前兆
- 夏四月、雪が降った。
- 秋、桃李が実を結び、さらに十余日にわたる大雨で東郡の金隄が決壊した。
- 先立って清河都尉馮逡は、屯氏河が塞がって分水機能を失い、清河・兗州・東郡一帯は危険だとして、旧流路を浚渫すべきだと進言していた。
- しかし、博士許商らは財用不足を理由に着工を見送り、その後ついに館陶・東郡で河が決した。
- 洪水は兗州・豫州、平原・千乗・済南などに及び、四郡三十二県、十五万頃以上が浸水し、官亭・家屋四万近くが壊れた。
冬十一月 尹忠自殺・救荒・王尊再起
- 冬十一月、御史大夫尹忠は対策が疎略だとして帝に厳しく責められ、自殺した。
- 大司農の非調が、被災地に対する銭穀の調整にあたり、さらに河南以東から五百艘の船を動員し、九万七千余口を高地へ移した。
- 壬戌、少府張忠が御史大夫となった。
- また、南山の群盗傰宗らが数百人規模で京畿を脅かしたが、討伐は進まなかった。
- 王鳳は、都近くの賊を平定できぬのは対外的にも体面を失うとして、かつて高陵令に退けられていた王尊を諫大夫・京輔都尉として召し、京兆尹の職務を代行させた。
- 王尊は一か月ほどで盗賊を一掃し、その後正式に京兆尹となった。
陳湯の罪と谷永の弁護
- 以前、匡衡は射声校尉陳湯が西域使節の際、専断し、康居から得た財物を盗んだとして罷免を奏していた。
- その後、陳湯は康居王の侍子に関する報告が虚偽だったとして獄に下され、死罪相当とされた。
- 谷永はこれを弁護し、郅支単于を斬って西海を震わせた功は並ぶものがなく、言事の過失で大功臣を死に至らしめては、将兵に報いる道に反すると強く訴えた。
- 帝は陳湯を獄から出し、爵は奪ったものの、一般兵卒の身分にとどめた。
段会宗救援をめぐる陳湯の判断
- 西域都護段会宗が烏孫兵に包囲され、救援要請を送ってきた。
- 丞相王商・大将軍王鳳以下は数日議して決せず、王鳳は西域事情に通じた陳湯に諮るよう進言した。
- 陳湯は宣室で帝に召され、胡兵の戦力は漢兵に及ばず、烏孫は寄せ集めで久しく包囲を続けられないので、すでに解囲しているはずだと断言した。
- さらに指を折って日を数え、「五日を出ずして吉報がある」と述べたところ、四日後に解囲の報が届いた。
- 王鳳はその才を認め、大将軍府の従事中郎に任じた。