資治通鑑漢紀二十二 孝成皇帝 河平 二年 前27年

春 匈奴降人問題

  • 春、伊邪莫演は帰国に際し、「もし漢が受け入れてくれなければ自殺し、匈奴には帰れない」と述べ、投降を願い出た。
  • 公卿には、旧例通り受け入れるべきだという意見もあった。
  • しかし光禄大夫谷永と議郎杜欽は、すでに単于は臣従しており、その使者の逃亡を受け入れれば、一人を得て一国の心を失うことになると反対した。
  • また、単于が試しに偽降を命じた可能性や、反間の策である可能性も挙げ、受け入れないのが辺境安定の根本だと論じた。
  • 帝はこれに従い、中郎将王舜を遣わして真意を問わせたところ、伊邪莫演は「病んで気が乱れて妄言しただけだ」と言い、匈奴に帰っても以前どおりの官位を保ち、漢使との面会を拒んだ。

夏四月 楚の雹と定陶王の移封

  • 夏四月、楚国で釜ほどの大きさの雹が降った。
  • 山陽王康を定陶王に移した。

六月 王氏五侯

  • 六月、帝は母方の諸舅をそろって列侯に封じた。王譚は平阿侯、王商は成都侯、王立は紅陽侯、王根は曲陽侯、王逢時は高平侯となった。
  • 五人が同日に封じられたため、世に「五侯」と呼ばれた。
  • 太后の母李氏は再婚して河内の茍賓の妻となり、子の参を生んでいた。太后は田蚡の例になぞらえて参にも封侯を望んだが、帝はそれは正統ではないとして許さず、侍中・水衡都尉にとどめた。

王尊免官と復帰

  • 御史大夫張忠は、京兆尹王尊が暴虐で傲慢だとして弾劾し、王尊は免官となった。
  • だが、湖県の三老公乗興らが上書し、王尊は京師の混乱を整え、群盗を討ち、豪強を抑えた有能な官であり、今回の弾劾は御史丞楊輔の私怨によるものだと訴えた。
  • 彼らは、公卿・博士に王尊の平素の行いを再審させるべきだと請願した。
  • 帝はこれを容れ、王尊を徐州刺史として再起用した。

西南夷の乱と陳立の平定

  • 夜郎王興、鉤町王禹、漏卧侯俞が再び兵を挙げて争った。
  • 牂柯太守は討伐を願い出たが、道が遠いとして、まず張匡を節を持つ使者として遣わし和解を図った。しかし諸王は命を聞かず、漢吏の木像を道ばたに立てて射るほどであった。
  • 杜欽は王鳳に、和解を長引かせれば彼らは勢力を固め、ついには守尉を殺して後戻りできなくなると説き、早期に厳断すべきだと勧めた。
  • 王鳳は金城司馬陳立を牂柯太守に推薦した。
  • 陳立は興を且同亭に招き、数千の従兵を率いて来た夜郎王興をその場で責め立てて斬首した。
  • その首を示されると諸部は武器を解いて降り、鉤町王禹・漏卧侯俞も恐れて穀物と牛羊を出し、吏士を慰労した。
  • だが興の妻の父翁指と子の邪務が二十二邑を脅して反乱を継続した。
  • 冬、陳立は諸夷を募って都尉・長史とともに攻め、補給路を断ち、離間策も用いた。都尉万年が独断で進んで敗走する一幕もあったが、陳立は自ら救援した。
  • 旱天の中で水源を断たれた反乱軍は持ちこたえられず、ついに夷人たち自身が翁指を斬って降伏し、西夷は平定された。