資治通鑑漢紀二十二 孝成皇帝 河平 四年 前25年

春正月・三月 単于来朝と日食

  • 春正月、匈奴単于が来朝し、天下の徒刑囚を赦した。
  • 三月癸丑朔、日食があった。

王商と王鳳の対立、王商失脚

  • 琅邪太守楊肜は王鳳の婚姻関係者であったが、その郡に災害が起きたため、丞相王商が按問した。
  • 王鳳は楊肜のために取りなしたが、王商は聞かず、ついに免官を奏上した。ただし奏請は寝かされて実行されなかった。
  • これを恨んだ王鳳は、頻陽の耿定に上書させ、王商が父の傅婢と通じ、女弟も淫乱で、その情夫を奴に殺させた疑いがあると訴えさせた。
  • 帝は暗い家内の過失にすぎず、大臣を傷つけるほどではないと見たが、王鳳は強く争い、張匡も追い打ちの上書を行った。
  • 有司は王商を召し出して取り調べるよう求めたが、帝は王商を重んじ、張匡の言は険悪すぎるとして不問にしようとした。
  • それでも王鳳が譲らず、夏四月壬寅、王商はついに丞相印綬を収められて罷免された。
  • 王商は三日後に発病し、吐血して死んだ。諡は戾侯。だが長子王安には楽昌侯の爵位継承が許された。
  • 王商の子弟・親族で、近侍や郎吏にあった者たちもことごとく外任へ出された。

張禹の登用

  • 帝が太子の頃に『論語』を学んだ師である張禹は、即位後すでに諸吏光禄大夫・給事中・領尚書事となっていた。
  • 張禹は王鳳と並んで尚書を領することに不安を抱き、たびたび病を理由に退こうとしたが、帝は厚く慰留した。
  • 六月丙戌、帝は張禹を丞相に任じ、安昌侯に封じた。

庚戌 楚孝王囂薨

  • 庚戌、楚孝王囂が薨去した。

罽賓との通交を抑制

  • 罽賓は遠隔の地で、以前から漢使をしばしば殺害していた。
  • かつて漢が立てた王陰末赴も、のちに使者を殺したが、元帝は遠絶の地として深追いしなかった。
  • 成帝即位後、罽賓は再び謝罪の使いを送ってきたため、朝廷は返使を送ろうとした。
  • 杜欽は王鳳に対し、罽賓は兵が届かぬことを知っているから、求める時だけへりくだり、不要になればまた驕る国であり、しかも県度以西は道が険しく補給も困難で、使者・人馬の損耗が甚だしいと説いた。
  • 遠国の商人を送るために中国の吏士を危地へさらすのは長久の計ではないとして、すでに節を受けた使者も皮山までで帰還させるべきだとした。
  • 王鳳はこの進言を採用し、以後、罽賓は賜与や交易利益を求めて数年に一度使者を送る程度となった。