資治通鑑漢紀二十二 孝成皇帝 陽朔 元年 前24年
春二月・三月 改元と日食
- 春二月丁未晦、日食があった。
- 三月、天下の徒刑囚を赦し、陽朔と改元した。
冬 王章の獄死へ至る背景
- この頃、大将軍王鳳が政権を専らにし、帝は謙退して自ら決断しないことが多かった。
- 側近は劉向の少子劉歆を才気ある人物として推挙し、帝は召見してその詩賦・読誦を喜び、中常侍に任じようとした。
- だが左右近臣は「大将軍にまだ相談していない」と強く争い、帝が王鳳に告げると、王鳳は不可としたため、任命は中止された。
- 王氏一門の子弟は卿・大夫・侍中・諸曹に満ち、朝廷の権勢は王氏に集中していた。
- 杜欽は王鳳に対し、周公のような謙退を保ち、穰侯や武安侯のような専横を慎み、范雎のような策士に隙を与えないよう戒めたが、王鳳は従わなかった。
定陶共王と継嗣問題
- 帝には継嗣がなく、体調も優れなかった。
- 定陶共王が来朝すると、太后も帝も先帝以来の意向を継いでこれを厚遇し、賞賜は他王の十倍に及んだ。
- かつて定陶王を太子に代えようとした議論についても、帝は全くわだかまりを見せず、京師に引き留めた。
- 帝は共王に対し、「自分にもしものことがあれば再び会えない。長く留まって自分に仕えてほしい」とまで語った。
- しかし病がやや癒えると、王鳳は日食を口実に、親王は藩国にいるのが礼であり、京師常駐は変則だとして、共王を帰国させるよう求めた。
- 帝はやむなくこれを許し、別れに際して二人は涙を流した。
王章の直言
- 京兆尹王章は、もともと剛直で、王鳳に挙げられながらも迎合しなかった。
- 彼は封事を上げ、日食の咎は王鳳の専権・蔽主にあるのであって、定陶王を近づけたことは宗廟・社稷のための正しい措置であり、むしろ祥瑞を招くべき善政だと述べた。
- さらに、王鳳が日食の責任を定陶王に転嫁して追い返したのは、天子を孤立させ、自身が朝政をほしいままにするためだと批判した。
- あわせて、王商失脚の件、王鳳が妻の妹である張美人を後宮に入れた件などを挙げ、私情によって政を乱していると弾劾した。
- 帝は王章を召して話を聞き、「もし京兆尹の直言がなければ社稷の計を知らなかった」と感激し、自らを補佐できる賢者を推薦するよう求めた。
- 王章は、信都王の舅である琅邪太守馮野王を推した。
王鳳の反撃と王章の死
- だが侍中王音が側でこれを聞き取り、王鳳に密告した。
- 王鳳は大いに恐れ、杜欽の勧めで辞職を願う上疏をした。太后はこれを聞いて涙し、食も進まなかった。
- 帝は幼少より王鳳に頼っていたため、ついに退けることができず、優詔を下して復職させた。
- そのうえで尚書に命じ、王章が馮野王を私的に推挙したこと、張美人をめぐって羌胡の首子殺しを引き合いに出したことは不敬だとして、獄に下した。
- 廷尉は大逆罪にあたるとし、王章は獄中で死んだ。妻子は合浦へ流された。
- 以後、公卿たちは王鳳を横目でうかがうばかりとなった。
馮野王免官・杜欽の取り繕い
- 馮野王は不安のあまり病み、三か月の賜告を得て杜陵に帰り療養した。
- 王鳳は御史中丞に諷して、虎符を持って郡界を出たのは詔に対する不敬だと弾劾させ、馮野王を免官した。
- 杜欽は、故事では二千石が病気で賜告を受けて帰ることもあり、明文の禁令はない、しかも野王の行為は新たな法を作る前のことだと弁護したが、王鳳は聞き入れなかった。
- 世論は王章の死に同情したため、杜欽はさらに、直言極諫の士を集めて意見を尽くさせ、言論によって罪するのでないことを天下に示すべきだと王鳳に提案した。
- 王鳳はこれを採用した。
薛宣の治績
- この年、陳留太守薛宣が左馮翊となった。
- 薛宣は赴任先ごとに名声があり、その子薛恵が彭城令の時に通りかかった際にも、能力不足を知りつつ行政の細事までは教えなかった。
- 役人の道は法令を師とし、あとは資質の差で決まるので、すべてを教えられるものではないというのが薛宣の考えであり、当時の人々はこれをもっともらしいと伝えた。