資治通鑑漢紀二十一 孝元皇帝下 永光 四年 前40年

赦令と祭祀

  • 春二月、天下に大赦を行った。
  • 三月、皇帝は雍に行幸し、五畤を祀った。

天変と周堪・張猛の再起、そして石顕の専横

  • 夏六月、孝宣帝の園陵東闕が焼け、ついで晦日に日食が起きた。
  • 皇帝は以前に日変を予言していた周堪・張猛を呼び出して問いただしたが、二人は謝罪したのち、かえってその才を評価され、行在所に召された。
  • 周堪は光禄大夫となり、秩中二千石で尚書事を領し、張猛も再び太中大夫・給事中となった。
  • しかし中書令石顕が尚書機構を握っており、尚書に関わる者たちも石顕の党与であった。
  • 周堪は石顕を通じてしか上奏できず、しかも病で声が出なくなってまもなく死んだ。
  • 石顕は張猛を誣告し、公車で自殺に追い込んだ。

宗廟整理

  • かつて貢禹は、恵帝・景帝の廟は親が尽きているので廃すべきであり、郡国に広く置かれた宗廟も古礼に合わないので整理すべきだと上奏していた。
  • 秋七月、昭霊后・武哀王・昭哀后・衛思后・戾太子・戾后の園を廃し、祭祀をやめ、最低限の守衛だけを置いた。
  • 冬十月、郡国にある祖宗の廟も廃止し、諸陵は三輔に分属させた。
  • 渭城の寿陵亭部原上を初陵の地と定めた。これは元帝の陵で、まだ正式名称がなかったため仮にこう呼ばれた。
  • あわせて陵のために新たに県邑を置いたり、郡国の民を移住させたりしないよう命じた。