資治通鑑漢紀十九 中宗孝宣皇帝 五鳳 四年 前54年
春 広陵王胥の死と匈奴の称臣
- 前年の巫蠱事件を受け、広陵王胥は自殺した。
- 匈奴の単于が臣を称し、弟の右谷蠡王を漢へ入侍させたと記されるが、この単于が誰かは史料間に異同がある。
- 辺境に寇がなかったため、戍卒を十分の二減らした。
耿寿昌の常平倉
- 大司農中丞耿寿昌は、近年は豊年が続いて穀価が安く、農民の利益が薄いと述べた。
- 従来は関東から毎年四百万斛の穀を漕運して京師を養っていたが、三輔・弘農・河東・上党・太原の穀で十分まかなえるので、関東の漕卒六万人の過半を省けると奏上した。
- 皇帝はこれを採用した。
- さらに耿寿昌は、辺郡に倉を築き、穀価が安いときは高めの価格で買い入れ、高いときは低めの価格で売り出す制度を提案した。
- これが常平倉であり、民に便利とされたため、皇帝は詔して耿寿昌に関内侯の爵を与えた。
夏四月 日食と楊惲の誅殺
- 辛丑朔に日食があった。
- 楊惲は庶人に落とされたのち、家で産業経営に励み、財で自らを楽しませていた。
- 友人で安定太守の孫会宗は書簡を送り、大臣として廃退した者は門を閉ざして恐れ慎むべきで、財産経営や賓客との交際、名誉を求めるような振る舞いをしてはならないと戒めた。
- 楊惲は返書で、自分は罪が重く、身を誤ったので農夫として一生を終えるつもりだ、家族と力を合わせて耕作しているだけなのに、なぜこれが批判されるのかと反論した。
- さらに、伏臘には羊や羔を料理し、酒を飲んで瓦器を叩きながら「田畑は荒れ、豆をまいても萁になるばかりだ。人生は楽しむべきで、富貴を待っていて何になる」と歌ったと書いた。
- また甥の安平侯楊譚に対し、たとえ功があっても朝廷のために尽力する価値はないと言い、韓延寿や蓋寛饒の例を引いて、結局は誅されるだけだと語った。
- ちょうど日食の変があったため、騶馬の猥佐成が楊惲の驕奢・不悔改を告発し、日食の咎はこのような人物にあると上書した。
- 廷尉が取り調べ、孫会宗への返書が証拠となると、皇帝はその内容を憎み、楊惲を大逆無道として腰斬に処した。
- 妻子は酒泉郡へ流され、楊譚も連座して庶人となった。
- 楊惲と親しかった未央衛尉韋玄成、孫会宗らもみな免官された。
司馬光の評
- 司馬光は、宣帝は明君であり、魏相・丙吉が丞相、于定国が廷尉であったにもかかわらず、趙広漢・蓋寛饒・韓延寿・楊惲らの死は人心を満足させるものではなく、善政にとって大きな累であったと論じる。
- とくに、能吏や剛直の士に対して法の適用が過酷で、蕭望之が韓延寿を追い詰めた事情を皇帝が見抜かず、韓延寿だけが罪を負ったのは甚だしいと評している。
匈奴 郅支単于が勢力拡大
- 閏振単于はその兵を率いて東へ進み、郅支単于を攻めたが、郅支はこれを破って殺し、その軍勢を併合した。
- 続いて呼韓邪単于を攻撃し、呼韓邪は敗走した。
- 郅支単于は単于庭に都した。