資治通鑑漢紀十九 中宗孝宣皇帝 甘露 元年 前53年

春正月 張敞の復起

  • 皇帝は甘泉に行幸し、泰畤で郊祀を行った。
  • 楊惲が誅された際、公卿は京兆尹張敞も楊惲の党友であり、官にとどめるべきでないと奏上したが、皇帝は張敞の才能を惜しみ、その奏上を留め置いて処分しなかった。
  • その後、張敞の掾である絮舜が、張敞はいずれ五日ほどで京兆尹を去るだろうから、今さら捜査しても仕方ないと私語した。
  • 張敞はこれを聞くと、絮舜を逮捕して昼夜取り調べ、ついに死に至らせた。しかも主簿を通じて、京兆尹は五日しか持たぬと言ったが、どうだと伝えさせた。
  • ちょうど立春に冤獄を調べる使者が出て、絮舜の家族はその死体と張敞の文書を携えて直訴した。
  • 使者は張敞が無辜を殺したと奏上したが、皇帝は張敞に自ら退く余地を与えようと考え、まず楊惲事件で以前から出ていた奏上に基づいて、張敞を免官して庶人とした。
  • 張敞は宮門で印綬を返上すると、そのまま亡命した。
  • 数か月後、京師では治安が弛み、冀州では大盗賊が起こったため、皇帝は張敞の功績を思い出し、使者を派遣して居所で召し出した。
  • 張敞は、今回は捕縛ではなく起用だと見抜き、使者に従って公車に詣で、自分は恩を受けた掾絮舜が、処分を受ける自分に向かって「五日京兆」と侮ったので、薄俗を傷つけるとして誅した、自分が法に背いて無辜を殺した罪は認めるが、死しても恨みはないと上書した。
  • 皇帝は引見して、張敞を冀州刺史に任じた。
  • 張敞が赴任すると、盗賊は姿を消した。

皇太子への不満

  • 皇太子は柔和で仁愛があり、儒学を好んだ。皇帝が文法吏を多く用い、刑罰で下を律しているのを見て、しばしば側近とともに、刑が過酷すぎるので儒者を用いるべきだと穏やかに語っていた。
  • 皇帝は顔色を変えて、漢家には独自の制度があり、もともと王道と覇道をあわせ用いているのであって、周代のような純粋な徳教だけでは治まらない、俗儒は時宜を知らず古を是として今を非とし、名実を惑わせるだけだと述べた。
  • そして「わが家を乱す者は太子だ」と嘆いた。
  • 司馬光はこれを批判し、王道と覇道は善悪のように正反対ではなく、ともに仁義・任賢・賞罰を本とするものであり、ただ名位や規模の差にすぎないと論じる。
  • また、俗儒が使えないからといって真の儒者まで退けるのは誤りであり、稷・契・皋陶・伯益・伊尹・周公・孔子のような大儒を得ていれば、漢の治績はさらに大きかったはずだと評した。

淮陽王への寵愛と太子の安定

  • 淮陽憲王は法律を好み、聡明で才があり、その母張倢伃がとくに寵愛されていたため、皇帝は太子を疎んじ、しばしば淮陽王を「まことに我が子だ」と賞した。
  • 立太子以前の事情や、即位後に許皇后が殺された経緯を思って、すぐには太子を廃するに忍びなかった。
  • やがて韋玄成を淮陽の中尉に任じた。韋玄成はかつて兄に爵位を譲ったことがあり、その徳で淮陽王を諭させようとしたのである。
  • こうして太子の地位は安定した。

匈奴 呼韓邪、漢への臣従を決意

  • 呼韓邪単于が郅支に敗れたのち、左伊秩訾王は、漢に称臣して入朝し、援助を受けるべきだと勧めた。
  • 大臣たちは、匈奴は武力を尊び、服役を卑しむのが旧俗であり、兄弟争いで死んでも威名は残る、漢がいかに強くとも匈奴を併呑できないのに、なぜ先祖の制度を破って漢に臣事し、諸国に笑われねばならないのかと反対した。
  • 左伊秩訾王は、今は漢が盛んで、烏孫や城郭諸国も漢に服属し、匈奴は且鞮侯単于以来日ごとに衰えて安寧の日がない、漢に事えれば安存し、従わなければ危亡するだけだと説いた。
  • 議論は長く続いたが、呼韓邪単于はその計に従い、南へ塞近くに移り、子の右賢王銖婁渠堂を漢へ入侍させた。
  • 郅支単于もまた、子の右大将駒于利受を入侍させた。

二月・夏 諸変

  • 二月丁巳、楽成敬侯許延寿が薨去した。
  • 夏四月、新豊に黄龍が現れた。
  • 丙申に太上皇廟が、甲辰に孝文廟が火災に遭い、皇帝は五日間素服した。

烏孫の政変と馮夫人

  • 烏孫では狂王が再び楚主解憂公主を妻としたが、和せず、しかも暴悪で人望を失っていた。
  • 漢の衛司馬魏和意と副候任昌が烏孫へ赴くと、公主は狂王は国人に苦しめられており、殺しやすいと語った。そこで宴を設け、武士に剣を抜かせて狂王を襲わせたが、剣は急所を外し、狂王は傷を負って逃げた。
  • 狂王の子細沈瘦が兵を集め、和意・任昌と公主を赤谷城に包囲した。数か月後、都護鄭吉が諸国兵を発して救援し、ようやく囲みは解かれた。
  • 漢は中郎将張遵を派遣して狂王に医薬と金帛を与え、一方で魏和意・任昌を尉犁経由で檻車に載せて長安へ送り、斬った。
  • その後、肥王翁帰靡の胡婦の子である烏就屠は、狂王負傷の混乱に乗じて翖侯らと北山に逃れ、母方の匈奴兵が来ると吹聴して人々を集め、ついには狂王を襲って殺し、自ら昆彌となった。
  • 漢は破羌将軍辛武賢に一万五千の兵を与え、敦煌方面で水路を開いて兵糧を積み、討伐の構えを示した。
  • このとき、楚主の侍者だった馮嫽は、文書事務にも外交にも通じ、諸国から「馮夫人」と呼ばれて信頼されていた。彼女は烏孫の右大将の妻でもあった。
  • 鄭吉は馮夫人を使って烏就屠を説き、漢軍が出れば必ず滅ぶ、降ればよいと伝えた。烏就屠は恐れ、小号で身を立てたいと願った。
  • 皇帝は馮夫人を召して事情を聴き、再び彼女を送り返したうえ、長羅侯のいる赤谷城に赴かせて、元貴靡を大昆彌、烏就屠を小昆彌とし、双方に印綬を授けた。
  • これにより破羌将軍は出塞せずに帰還した。
  • しかし烏就屠は翖侯や民衆を十分には返さなかったため、漢はさらに長羅侯に三校を率いさせて赤谷に駐屯させ、人民と地界を分けた。
  • 大昆彌は六万余戸、小昆彌は四万余戸となったが、人心はおおむね小昆彌に帰した。