資治通鑑漢紀十九 中宗孝宣皇帝 甘露 二年 前52年

春正月 諸王の立封

  • 正月、皇子囂を定陶王に立てた。
  • 天下に赦を行い、民の算賦を三十減らした。

夏四月―五月 珠厓反乱と人事

  • 珠厓郡が反乱した。
  • 夏四月、護軍都尉張禄を派遣して兵を率いさせ、これを討たせた。
  • 杜延年は老病のため罷免された。
  • 五月己丑、廷尉于定国が御史大夫となった。

秋七月・冬十二月

  • 秋七月、皇子宇を東平王に立てた。
  • 冬十二月、皇帝は萯陽宮の属玉観に行幸した。

この年 趙充国の死と匈奴朝賀儀礼の議論

  • この年、営平壮武侯趙充国が薨去した。
  • 以前に老齢を理由に引退を願い出て、安車・駟馬・黄金を賜り、邸宅で閑居していたが、朝廷で四夷に関する大議があるたびに兵事の計画に参与し、策を問われていた。
  • 匈奴の呼韓邪単于は五原塞に来て、翌年正月に国の珍宝を奉って朝賀したいと申し出た。
  • これに対し丞相・御史は、聖王の制では京師の内を先にし、諸夏をその次にし、夷狄はその後であるから、単于の礼は諸侯王と同じくし、席次はその下に置くべきだと議した。
  • これに対して太子太傅蕭望之は、匈奴は正朔の及ぶところではなく、本来は敵国として扱ってきたのだから、不臣の礼で遇し、諸侯王の上位に置くべきだとした。外夷が稽首して藩臣を称しても、中国は譲って臣としないのが羈縻の義であり、長久の策だと論じた。
  • 皇帝はこの説を採用し、詔を下して、単于は北蕃として正朔に朝するが、客礼で遇し、その位を諸侯王の上に置き、謁見時には「臣」と称させるが名は呼ばないことにした。
  • 荀悦はこれに異論を述べ、春秋の義では王者に内外の別はなく、夷狄に礼教が及ばないのは距離と情勢ゆえであって、敵国視するためではないとし、望之の議は尊卑の秩序を乱すと評している。ただし当時の権宜としてみるなら別論だとも付す。
  • 韓昌を車騎都尉として単于の迎接に派遣し、通過七郡から二千騎を発して沿道警護にあたらせた。