資治通鑑漢紀十九 中宗孝宣皇帝 五鳳 三年 前55年
春正月―二月 丙吉の死と黄霸の丞相就任
- 正月癸卯、博陽定侯丙吉が薨去した。
- 史評では、蕭何・曹参が高祖の開基を助け、宣帝中興では丙吉・魏相が名を成し、この時代は黜陟に秩序があり、百官も職を修め、海内に礼譲の風が起こったと讃えている。
- 二月壬辰、黄霸が丞相に任じられた。
- 黄霸は民政には長けていたが、丞相となってからは郡守時代ほどの名声を保てなかった。
張敞、黄霸の「神雀」論を批判
- 京兆尹張敞の家に鶡雀が飛来し、その後に丞相府へ移った。黄霸はこれを神雀と見て朝廷に報告しようとした。
- 張敞はこれに反対し、郡国からの上計吏を前に、耕地を譲るとか男女が別道を行くとか落とし物を拾わないといった美談だけを競わせれば、官吏は丞相の意向を忖度して法令を捨て、私的な教化や見せかけの善政に走ると上奏した。
- とくに、丞相府の鶡雀を瑞祥として騒ぎ立てれば、地方官もこれに迎合し、実のない虚飾を天下に広める危険があると論じた。
- 郡政は法令に基づいて行うべきで、三老・孝弟・力田・孝廉・廉吏の推挙も真にふさわしい者を選ぶよう命ずべきであり、名誉目当てに偽りを働く者は厳罰に処すべきだとした。
- 皇帝は張敞の意見を嘉納し、上計吏にその趣旨を伝えさせた。黄霸は大いに恥じた。
黄霸、史高推薦で叱責される
- さらに、黄霸は外戚で恩顧の厚い侍中楽陵侯史高を太尉に推挙した。
- 皇帝は尚書を通じて黄霸を問いただし、教化を明らかにし、冤獄や盗賊をなくすことこそ丞相の職務であり、将相の任命は自分の権限である、まして史高は近侍で自分がよく知る人物なのに、なぜ越権して推挙するのかと叱責した。
- 黄霸は冠を脱いで謝罪し、数日後ようやく許された。以後、軽々しく人事に口を出さなくなった。
- それでも、漢代を通じて民を治める能吏としては黄霸を第一とする評価が残った。
三月―六月 河東行幸と人事
- 三月、皇帝は河東に行幸して后土を祀り、天下の口銭を減免し、殊死以下を赦した。
- 六月辛酉、西河太守杜延年が御史大夫となった。
- また西河・北地に属国を置き、匈奴の降者を住まわせた。
広陵王胥の巫蠱事件
- 広陵厲王劉胥は巫女李女須に命じて皇帝を呪詛し、自ら天子になろうとした。
- 事が発覚すると、王胥は巫女や宮人二十余人を毒殺して口封じを図った。
- 公卿は王胥の誅殺を請願した。