資治通鑑漢紀十八 中宗孝宣皇帝 神爵二年 二年 前60年

春正月 鳳凰・甘露による赦

  • 春正月、鳳凰と甘露が京師に降り集まったとされ、天下に大赦が行われた。

夏五月 羌討伐の総決算

  • 夏五月、趙充国は上奏し、羌の兵力はもと五万人ほどであったが、戦果として斬首七千六百級、降伏三万一千二百人、河湟での溺死・飢死五、六千人に達したと報告した。
  • なお計算しても、煎・鞏・黄羝とともに逃れ残った者は四千人を超えないと見積もった。
  • 羌の靡忘らは、残党の収捕は自分たちで必ず成し遂げると請願し、屯兵の罷免を求めた。
  • 朝廷はこれを許し、趙充国は軍を整えて帰還した。

浩星賜との対話と趙充国の姿勢

  • 親しい浩星賜が趙充国を迎え、世人は破羌将軍・彊弩将軍の出撃を高く評価しているから、自分も彼らの功として認めておけばよいと勧めた。
  • 趙充国は、国家の兵事は重大で後世の法ともなるのだから、一時の功名を争って明主を欺くことはできないと答えた。
  • 老いて余命少ない今こそ、兵の利害を率直に言い切らなければ、死後に誰が言うのかとして、最後まで自説を曲げなかった。
  • 宣帝もその姿勢を是とし、辛武賢を酒泉太守に帰し、趙充国は再び後将軍となった。

秋 先零残党の降伏と金城属国の設置

  • 秋、羌の若零・離留・且種・児庫らが、先零の大豪である猶非・楊玉、その弟の沢陽雕・良児・靡忘らを斬り、煎・鞏・黄羝に属する四千余人を率いて降った。
  • 漢は若零らの一部を帥衆王とし、他の者たちも侯や君に封じた。
  • さらに、金城属国を新設して降羌を住まわせた。

護羌校尉の人選

  • 朝廷は、誰を護羌校尉にすべきか諸府に推挙させた。護羌校尉の官はこの時期にはっきり史上に現れる。
  • このとき趙充国は病んでいたが、丞相府・御史府・車騎将軍府・前将軍府が辛武賢の弟の辛湯を推したので、急いで起き上がって上奏した。
  • 趙充国は、辛湯は酒に任せて気を荒くする性格で、蛮夷を統べるには向かず、兄の臨衆には及ばないと論じた。
  • しかし辛湯はすでに拝命して節を受けていたため、詔で改めて臨衆に差し替えられた。
  • のち臨衆が病免すると、五府は再び辛湯を推挙した。
  • 辛湯はしばしば酔って羌人に乱暴したため、羌は反叛し、結局は趙充国の見立てどおりとなった。

辛武賢の讒告と中郎将卬の死

  • 辛武賢は、破羌将軍としての恩賞や評価が趙充国に阻まれたと感じ、深く恨んでいた。
  • そこで、中郎将卬が禁中の語を漏らしたと上書して告発した。内容は、かつて軍中で卬が張安世に関する宮中の事情を語り、それが安世を救う判断につながったという件であった。
  • 卬は獄に下され、自殺した。

盖寛饒の直言と自刎

  • 司隷校尉の魏郡盖寛饒は、剛直で公正、たびたび上意に触れるほど率直な人物であった。
  • 当時、宣帝は刑法を重んじ、中書官、すなわち宦官系の近習を任用していた。
  • 盖寛饒は封事を上げ、聖道は次第に衰え、儒術は行われず、去勢された者を周公・召公になぞらえ、法律を詩書の代わりとしていると痛烈に批判した。
  • さらに、易伝を引き、五帝は天下を公のものとし、三王は家として子孫に伝えたと述べた。
  • 宣帝はこれを怨望・誹謗とみなし、書を中二千石に下して議させた。
  • 執金吾の賢らは、盖寛饒は禅譲を求める意図を含み、大逆不道にあたると断じた。
  • 諫大夫の鄭昌は、盖寛饒は忠直憂国の士であり、言が上意に当たらぬため文吏に屈せられただけだとして、弁護の上書を出した。
  • 鄭昌は、外戚の許史にも、近侍の金張にも頼らず、司察の任にあって直道を行うがゆえに仇が多かっただけだと訴えたが、宣帝は聞き入れなかった。
  • 九月、盖寛饒は獄に下され、北闕の下で佩刀を引いて自刎した。人々はみなこれを憐れんだ。

匈奴の辺境威圧と撤兵

  • 匈奴の虚閭権渠単于は十余万騎を率いて塞のそばで狩猟し、辺境に侵入しようとした。
  • だが到着前に、配下の題除渠堂が逃亡して漢に降り、その情勢を告げたため、漢はこれを厚遇して鹿奚盧侯に封じた。
  • また、後将軍趙充国に四万余騎を与え、縁辺九郡に分屯させて備えさせた。
  • ひと月余りして、単于は病んで喀血し、ついに侵入を断念して帰還したので、漢も兵を罷めた。
  • その後、匈奴は題王都犂胡次らを遣わして和親を求めたが、返答が出る前に単于が死んだ。

匈奴の政変

  • 虚閭権渠単于は、即位の際に顓渠閼氏を退けていた。
  • 顓渠閼氏は右賢王屠耆堂と私通しており、龍城の会の折に、単于の病が重いから遠くへ行くなと知らせた。
  • 数日後に単于が死ぬと、権臣の郝宿王・刑未央らが諸王を召そうとしたが、まだ集まりきらぬうちに、顓渠閼氏と弟の左大将且渠都隆奇が謀って、右賢王を握衍朐鞮単于として立てた。
  • 新単于は烏維単于の耳孫にあたる人物とされるが、この「耳孫」の世代関係について胡三省は諸説を引いて検討している。
  • 握衍朐鞮単于は凶暴で、郝宿王・刑未央らを殺し、都隆奇を重用した。
  • さらに虚閭権渠単于の子弟や近親をみな免じ、自らの子弟に置き換えた。
  • そのため、虚閭権渠単于の子の稽侯㹪は即位できず、妻の父である烏禅幕のもとへ逃れた。

日逐王の降漢と西域都護の成立

  • 烏禅幕は、もとは康居と烏孫の間の小国の主で、たびたび侵略を受け、数千人を率いて匈奴に降っていた。狐鹿姑単于は、弟の日逐王の姉をその妻とし、その衆を統べさせて右地に置いていた。
  • 日逐王先賢撣の父である左賢王は本来単于となるはずだったが、狐鹿姑単于に譲った経緯があり、国内には日逐王こそ単于位を継ぐべきだという声も根強かった。
  • 先賢撣は握衍朐鞮単于と不和であったため、その衆を率いて漢へ降ろうとし、使者を渠犁の騎都尉鄭吉に通じさせた。
  • 鄭吉は、渠犁・龜兹など西域諸国の兵五万人を動員して日逐王を迎え、口万二千人、小王将十二人を伴って河曲に至らせた。途中に逃散する者もあったが、鄭吉はこれを追って斬り、統制を保った。
  • 鄭吉は日逐王を京師へ送って降らせ、漢は彼を帰徳侯に封じた。
  • 鄭吉はすでに車師を破っていたうえ、今回の日逐王降服によって西域での威望を確立したので、車師以西の北道もあわせて統轄することになり、ここに「都護」の号が生まれた。
  • 宣帝は鄭吉を安遠侯に封じ、鄭吉は西域の中央に位置する烏壘城に幕府を立てた。
  • 烏孫・康居以下三十六国の動静を監督し、安撫できるものは安撫し、従わぬものは討つ体制が整えられ、漢の号令は西域にまで行き渡るようになった。
  • この結果、匈奴はますます衰え、西域をめぐって漢と争えなくなり、従来西域諸国を支配していた匈奴の僮僕都尉も廃された。

烏孫の継嗣問題

  • 握衍朐鞮単于は、自らの従兄の薄胥堂を日逐王に立てた。
  • 一方、烏孫の昆彌翁帰靡は、長羅侯常恵を通じて、漢の外孫である元貴靡を後継とし、あらためて漢の公主を娶らせて婚姻を重ね、匈奴と断交したいと願い出た。
  • これに対し大鴻臚の蕭望之は、烏孫は遠隔の地で変事を保しがたく、許すべきでないと意見した。
  • しかし宣帝は、烏孫が近年大功を立てたこと、また匈奴との旧縁を絶たせる利益を重んじ、解憂公主の妹の相夫を公主として送り、豊かな資送を付け、常恵に護送させた。
  • 常恵が敦煌に着く前後して翁帰靡が死ぬと、烏孫の貴人たちは以前の約に従い、岑娶の子泥靡を立てて昆彌とし、狂王と号した。
  • 常恵は急いで烏孫に赴き、元貴靡を立てなかったことを責め、少主を連れ帰るよう上書した。
  • この件も公卿に下され、蕭望之は、烏孫は常に両面作戦をとる国で約束しがたく、今少主が元貴靡の不即位を理由に帰還するのは、むしろ中国が夷狄に対して信を失わぬ道であり、余計な徭役を起こさぬ利益があると再度主張した。
  • 宣帝はこれに従い、少主を召し返した。