資治通鑑漢紀十八 中宗孝宣皇帝 神爵元年 前61年

春正月・三月 宣帝の祭祀拡張と神仙志向

  • 春正月、宣帝は甘泉に行幸して泰畤を郊祀し、三月には河東で后土を祀った。
  • 宣帝は武帝の先例をかなり意識し、斎戒や祭礼を丁重に整える一方、方士の進言を採り入れて各地・宮中に多くの神祠を増設した。未央宮内の四祠、即墨・下密・鴻門・長安城辺の星辰祠、さらに斉地・琅邪・膚施などにも祭祀施設が置かれた。
  • また、益州にいるとされた金馬・碧雞の神を祭れば招来できるという説が伝わり、諫大夫の王褒が節を持って探索に遣わされた。

王褒の登用と「賢臣」を求める議論

  • もとより宣帝は、王褒に優れた才があると聞いて召し出しており、王褒は「聖主得賢臣頌」を作って、名君にとって賢臣がいかに重要かを説いた。
  • その趣旨は、名工がよい道具を得、名御者が名馬を得るように、君主も賢臣を得てこそ少ない労で大きな成果を挙げられるというものであった。
  • さらに、伊尹・太公望・百里奚・寧戚らの例を引き、賢者は明主に遇ってこそ才能を発揮できると論じた。
  • 当時の宣帝は神仙を好む傾向があったため、王褒はそうした嗜好にも触れつつ、しかし本筋は聖王と賢臣の結合が天下安定の根本だと述べた。

張敞の諫言と方士政策の整理

  • 京兆尹の張敞も上疏し、車馬や神仙への過度の関心をいったん抑え、遠方の方士の空論を退け、帝王の術に心を向けるべきだと諫めた。
  • 宣帝はこれを受けて、方術関係の尚方待詔をすべて罷免した。

張敞の治績

  • 趙広漢の死後、京兆尹でその水準に達した者は少なかったが、張敞はその後をよく継いだ。
  • 手法の鋭さでは趙広漢に及ばない面もあったが、経術と儒雅さをもって政治を整え、文治の体裁を添えた。

王吉の上疏

  • 宣帝は宮室や車服の整備にも力を入れ、昭帝の時代より華美になり、外戚の許氏・史氏・王氏が栄えていた。
  • 諫大夫の王吉は上疏し、詔勅が下るたび民が喜ぶのは天恩だが、それだけでは政治の本には届かないと述べた。
  • そして、礼の整備こそ政治の根本であるとして、公卿・儒生を集めて古礼を検討し、現代に適う王制を明らかにすべきだと勧めた。
  • あわせて、婚礼の費用が過大で貧民が子を持てないこと、列侯が公主を娶り、諸侯が翁主を娶る制度が男女の秩序を乱すこと、衣服・車馬の僭奢が横行していることを批判した。
  • 世襲的な任子制度で俗吏の子弟が郎となる弊害、外戚や故旧を高位に置く不当、角抵・楽府・尚方の縮減なども提言した。
  • だが宣帝はその議論を現実離れしていると見て、格別には用いなかった。王吉は病と称して義渠へ帰った。

羌の反乱の発端

  • 義渠安国は羌地に入り、先零の豪族三十余人を招集して、そのうちとくに剛悪と見た者をみな斬ったうえ、兵を放ってその同族も撃ち、千余級を斬首した。
  • これにより、すでに降っていた羌や帰義羌侯の楊玉らは、漢にはもはや頼る先がないとして深く怨み、各小種を脅し奪って叛乱し、塞を犯し、城邑を攻め、長吏を殺した。

義渠安国の敗退と趙充国の起用

  • 安国は騎都尉として騎兵二千を率い、浩亹に駐屯して備えたが、羌に撃たれて車重や兵器を多く失い、令居まで退いて報告した。
  • このとき趙充国は七十余歳であった。宣帝は老将として重んじ、丙吉を通じて誰が将たるべきかを問わせた。
  • 趙充国は、自分に及ぶ者はいないと答え、さらに羌の情勢は伝聞では計れないので、自ら金城に赴いて地形と方略を見極めたいと願い出た。
  • 宣帝はこれを許し、大いに兵を発して、夏四月、趙充国に西羌討伐を命じた。

六月 彗星の出現

  • 六月、東方に彗星が現れた。

趙充国の慎重な進軍

  • 趙充国は金城に着くと、兵が一万騎に満ちるのを待ち、夜に三校をひそかに先に渡河させて営陣を築かせ、明け方までに全軍を次々と渡した。
  • 羌の騎兵が軍の周囲に出没したが、兵馬は新着で疲れており、相手は精鋭であり、また誘兵の恐れもあるとして、無益な追撃を禁じた。
  • 四望陿に伏兵がいないことを確認したうえで、夜間に進んで落都へ至った。そこでも、羌が兵法に通じていれば峡路を塞いで漢軍の進入を阻めたはずだと述べ、敵の未熟を見抜いた。
  • 趙充国は常に遠くまで斥候を出し、行軍時は戦備を整え、停止時は堅く営塁を守り、重厚な用兵を徹底した。
  • 西部都尉府に着くと、毎日兵士をねぎらって飲食を与えたので、軍士はみな進んで用いられようとした。
  • 羌はしばしば挑戦したが、趙充国は固守した。捕虜の話では、羌の豪族たちでさえ、かつて反乱を止めるよう忠告したのに、今や老いてなお兵に巧みな趙将軍が来て、一戦を願っても相手にしてもらえないと嘆いていたという。

罕羌への懐柔策

  • 以前、罕羌の豪族靡当児は、弟の雕庫を通じて先零の反乱を都尉に知らせていたが、その後反乱が起こると、都尉は雕庫を人質として留めた。
  • 趙充国は、雕庫に罪はないとして帰し、種族の豪族たちに、大軍は罪ある者だけを討つのであり、無辜をまとめて滅ぼすのではないと伝えさせた。
  • また、羌同士で罪人を捕えて差し出したり斬ったりすれば、その者の罪を除き、功に応じて金を与え、捕えた者の妻子・財物も与えると布告した。
  • 趙充国のねらいは、威と信を併用して罕羌や掠奪に加わった諸部を漢側に引き戻し、敵の結束を崩して疲弊を待つことにあった。

辛武賢の積極策

  • このころ、内郡から辺境に送られた兵は合わせて六万人に達していた。
  • 酒泉太守の辛武賢は上奏し、南山方面に兵を固めれば北辺が手薄になり、持久は難しいと主張した。
  • そこで、七月上旬に三十日分の糧食を持たせ、張掖・酒泉から分進して、鮮水のほとりにいる罕羌を急襲し、たとえ全滅できなくても家畜や妻子を奪って冬に再撃すれば、敵は崩れるだろうと述べた。

趙充国と辛武賢の論争

  • 宣帝はその上書を趙充国に回して意見を求めた。
  • 趙充国は、一頭の馬に三十日分の糧秣と装備を負わせれば重く、羌は漢軍の進退を見て水草を追って退き、山林・険阻に拠って糧道を断つだろうと反論した。
  • 家畜や妻子を奪うというのも空論に近く、実策ではないとした。
  • そして、反乱の首謀は先零であり、罕羌は脅かされて従った面があるので、その過失はひとまず伏せ、まず先零を討って威を示し、悔悟して帰順する者には赦しを与え、良吏を選んで撫循すべきだと説いた。
  • しかし公卿たちは、先零は罕羌の助けを受けている以上、先に罕羌を破らねば先零は討てないと議した。
  • 宣帝は、侍中の許延寿を彊弩将軍に、辛武賢を破羌将軍に任じ、二将の進言も取り入れつつ、趙充国には詔書で早期進撃を促した。

戊申・七月甲寅 趙充国の再上奏と採用

  • 趙充国は再び上書し、罕羌はまだ直接には犯しておらず、先零と和しているにすぎないのに、先零を措いて先に罕羌を撃てば、罪人を放って無辜を誅することになり、一難を除こうとして二害を招くと論じた。
  • 兵法に照らしても、敵をこちらに来させて、逸をもって労を撃つべきであり、罕羌が燉煌・酒泉を犯そうとするなら、そこで待ち受ける方がよいと述べた。
  • さらに、先零は罕羌との盟約を固めるため必ず救援に赴くから、先に罕羌を撃てばかえって先零が恩を施して結束を強め、後日の討伐は倍以上の力を要する、とした。
  • これに対し、七月甲寅の璽書で宣帝はついに趙充国の計を採用した。

先零への攻勢と罕羌の帰服

  • 趙充国は兵を進め、先零が掠奪地に長く屯して弛緩しているのを見て攻めた。
  • 先零は車重を捨てて湟水を渡ろうとしたが、道が狭かったため、趙充国はあえてゆるやかに圧迫した。急迫すれば死戦して害が大きくなるからである。
  • その結果、敵は渡河に殺到し、溺死数百、降伏・斬首五百余、牛羊十万余頭、車四千余両を得た。
  • ついで罕羌の地に入ると、集落や田中の芻牧を焼かせず、略奪も禁じたため、罕羌は漢が自分たちを討つ意図はないと知った。
  • 豪族の靡忘は、もとの地に戻りたいと申し出、のちには自ら趙充国のもとに来て帰順した。
  • 諸将はこれを拘束すべきだと争ったが、趙充国は、彼らはただ文墨上の安全を求めているだけで、公家に忠実な計ではないと退けた。
  • その直後、朝廷からも靡忘を贖論に付す旨の璽書が届き、結局、罕羌は大規模な戦いなしに降った。

屯田策の提案

  • 宣帝は、破羌将軍・彊弩将軍に十二月までに趙充国と合流して先零を撃つよう命じた。この頃には降伏した羌は一万人を超えていた。
  • 趙充国は、先零は必ず自壊すると見て、騎兵を罷めて屯田し、その疲弊を待つべきだと考え、上奏を準備した。
  • だがその前に進兵命令が届いたため、子の中郎将趙卬は危ぶみ、客を介して、もし上意に逆らえば繡衣の使者に責められ、身も保てまいと諫めた。
  • 趙充国は、もし以前から自分の策を用いていれば羌はここまで至らなかったのだと嘆き、耿寿昌に早く穀を買い入れるよう勧めたのに十分に備蓄されなかったこと、義渠安国の再出兵も失策だったことを挙げ、誤りは微差から大失に至ると語った。
  • そして、四夷が相次いで動けば知者でも収拾できなくなる、羌だけを見ていてはならないとし、死を賭して忠言すると決意した。

趙充国の屯田十二利

  • 趙充国は上奏し、長引く遠征は糧秣・茭藁・装備・労役の負担が大きく、他変を生みかねないと述べた。
  • 羌は兵で粉砕するより計略で崩す方が容易であるとして、臨羌から浩亹にかけての故田・公田二千頃余を開発し、歩兵一万二百八十一人を残して要害に屯し、氷解後に水運で材木を下し、郷亭の修繕、溝渠の浚渫、道橋七十所の整備を行い、鮮水付近まで達せる体制をつくるよう提案した。
  • 春になれば郡騎や属国胡騎を呼び寄せ、草地を利用しながら遊軍として支援させ、金城郡に穀を積み増して大費を省くことができるとした。
  • 宣帝が、いつ敵を誅し、いつ兵を引き揚げられるのかと問い返すと、趙充国は改めて上状し、帝王の兵は全勝を尊び、百戦百勝それ自体が最善ではないと説いた。
  • 羌もまた害を避け利に赴き、親族を愛し死を恐れる心は華夏と同じであり、いま彼らは良地を失い、骨肉も離れて、すでに離反の機が熟しているとした。
  • そして、兵を退いて万人を屯田に残せば、来春には敵の瓦解が望めるとして、留屯田の便宜十二条を列挙した。内容は、武備維持、敵の肥沃地復帰阻止、民農の保全、軍費節減、春の威示、水運材木による修繕、寒苦の地に敵を追い込むこと、遠征死傷の回避、軍威保持、河南の羌を刺激しないこと、西域への道路支配、労役軽減である。
  • 宣帝はなお、屯田兵や道上の兵を敵が襲えばどう防ぐのかと重ねて問うた。
  • 趙充国は、先零の精兵は七、八千に過ぎず、飢凍・離散が進んでいるので、三月いっぱいは馬も痩せて大規模な侵攻はできず、妻子を他種に預けて遠来の寇を働く余力もないと分析した。
  • 小規模な殺掠はすぐには絶てないが、それは出兵しても同じであり、必勝の道を捨てて危うい策に乗る利は見えないと強調した。
  • また、上意をなぞって嫌疑だけを避けるのは臣下の不忠であり、国家の福ではないとまで述べた。

公卿の議論の変化と兵の分用

  • 趙充国の奏は上がるたびに公卿へ下されて議された。
  • 当初は趙充国支持は三割ほどで、中ほどには五割、最後には八割に達し、先に不便とした者たちも詔勅で詰問されるとみな服した。
  • 丞相の魏相も、自分は兵事に通じないが、趙充国の策はたびたび的中してきたので信任できると表明した。
  • 宣帝はついに趙充国の計を嘉納しつつも、破羌将軍・彊弩将軍が重ねて攻撃を主張していたため、両策を折衷した。
  • すなわち、両将軍と中郎将卬に出撃を許し、彊弩将軍は降四千余人を受け、破羌将軍は斬首二千級、中郎将卬も斬首・降伏あわせて二千余の戦果を得た。
  • 一方で、趙充国の懐柔によりさらに五千余人が降った。
  • そこで朝廷は諸軍を罷め、趙充国だけを留めて屯田を続けさせた。

朱邑の死と韓増の昇進

  • 大司農の朱邑が死去し、宣帝は循吏として惜しみ、その子に黄金百斤を賜って祭祀に充てさせた。
  • この年、前将軍の龍額侯韓増が大司馬車騎将軍となった。

丁令と匈奴

  • 丁令はここ三年にわたり匈奴をしばしば抄掠し、数千人を殺し奪った。
  • 匈奴は一万余騎を派遣して討とうとしたが、ついに捕捉できなかった。
  • これは匈奴の衰えを示す出来事であった。