資治通鑑漢紀十七 中宗孝宣皇帝 元康 四年 前62年
春正月:高齢者への減免
- 春正月、八十歳以上の者については、誣告や殺傷人などを除き、その他の罪では処罰しないと詔した。
右扶風尹翁帰の死と追賞
- 右扶風の尹翁帰が死去した。家には余財がなかった。
- 秋八月、宣帝は、翁帰は廉平で、民を正しい方向に導き、その治績は特に優れていたとして、その子に黄金百斤を賜い、祭祀に充てさせた。
高祖功臣の後裔の探索
- 宣帝は有司に命じ、高祖功臣のうち侯位を失っていた家の子孫を探させた。
- 槐里の公乗周広漢ら百三十六人が見つかり、みな黄金二十斤を賜い、その家を復して祭祀を継がせ、世々断絶しないようにした。
張安世の死
- 丙寅、富平敬侯張安世が薨じた。
韋玄成の辞譲
- 先に扶陽節侯韋賢が薨じ、その長子韋弘は罪を得て獄にあった。家人は賢の遺命を偽り、次子の大河都尉韋玄成を後継にしようとした。
- 玄成はそれが不当であるとよく知っていたため、病狂を装って寝たまま大小便し、笑い、妄語して応召を避けた。
- しかし葬後に襲爵の時が来ると、召命に応じないので大鴻臚が奏し、丞相・御史が調査した。
- 取調官である丞相史は玄成に書を送り、古人の辞譲には見るべき義理と文章があるのに、君はただ容貌を損ね恥辱を被って狂を装うだけで、名を立てる道としてはあまりにみすぼらしいと諭した。
- 友人の侍郎章も上疏し、礼譲を重んずる聖代なのだから、玄成の志を曲げず衡門の下に安んじさせるべきだと訴えた。
- だが丞相・御史は実際には病でないとして劾奏し、詔で劾を止められつつも、玄成はついに爵を受けざるを得なかった。
- 宣帝はその節を高く評価し、玄成を河南太守とした。
車師王烏貴の送還
- かつて車師王烏貴は烏孫へ逃れていたが、烏孫はこれを留めて送還しなかった。
- 漢が使者を遣わして責めると、烏孫はようやく烏貴を朝廷へ送った。
羌情の緊迫
- 武帝が河西四郡を開いて以後、羌と匈奴との交通路は断たれ、諸羌は湟中から追われてその地に住めなくされていた。
- 宣帝即位後、光禄大夫の義渠安国が諸羌を巡察した際、先零の豪が「時宜を見て湟水を渡り、民の耕さぬ北方の地で牧畜したい」と願い出た。
- 安国はその意図を見抜けず、願いを上聞した。後将軍趙充国は、使者として不敬であると安国を弾劾した。
- その後、羌人はこの前例に拠って湟水を越え、郡県も禁じきれなくなった。
- やがて先零と諸羌の豪二百余人は、互いの仇を解いて人質を交わし、盟誓した。
- 宣帝がこれを趙充国に問うと、充国は、羌が制しやすいのは諸種がばらばらで互いに攻撃し合うからで、もし団結すれば長期の辺患になり得ると警告した。以前の羌乱も、まず和解・同盟してから漢と五六年対抗したのだと説明した。
- また匈奴はたびたび羌に誘いをかけて張掖・酒泉を攻めさせ、その地に住まわせようとしており、最近は西方で打撃を受けているから、かえって羌との連携を強める恐れがあると述べた。
- 一か月余り後、果たして羌侯狼何が匈奴に使者を送り、兵を借りて鄯善・敦煌を攻め、漢の西域道を断とうとした。趙充国は、狼何一人の発想とは思えず、匈奴使者はすでに羌中に至っているはずだと見た。
- 先零や䍐・开の諸羌が和解・盟約したのもその表れであり、秋になって馬が肥えれば必ず変が起こるから、いまのうちに辺境に使者を巡行させて軍備を整え、諸羌には互いに仇を解かせぬよう命じるべきだと主張した。
- そこで両府は改めて、義渠安国を諸羌のもとへ行かせ、善悪の別を見させることにした。
- 当時は豊年が続き、穀価は石五銭という安さであった。