資治通鑑漢紀十七 中宗孝宣皇帝 地節 三年 前67年

春三月:膠東相王成への賞と、その後の疑義

  • 春三月、宣帝は「功ある者を賞せず、罪ある者を罰しなければ天下は治まらない」として、膠東相の王成を褒賞した。王成は流民をよく慰撫し、八万余口を帰着させ、統治にも顕著な成果があったとして、関内侯に封じられ、中二千石の秩を与えられた。
  • しかし王成は中央で起用される前に病死した。
  • その後、丞相・御史が郡国から上計に来た長史・守丞らに政令の得失を尋ねると、王成は実際以上に流民数を水増しして功績を装い、過大な賞を受けたのだと答える者があった。
  • このため以後、役人のあいだで実績より名目を飾る風が広がったという。

夏四月:皇太子の冊立と霍氏・許氏

  • 夏四月戊申、皇子の奭を皇太子に立てた。
  • 丙吉を太傅、太中大夫の疏広を少傅とした。
  • また太子の外祖父である許広漢を平恩侯に封じ、霍光の兄の孫で中郎将の霍雲を冠陽侯に封じた。
  • 霍顕は太子が立てられたことを聞いて激しく怒り、「民間にいた時の子が、なぜすぐ立太子されるのか。皇后に子があれば王にされるはずなのに」と不満をあらわにした。
  • 霍顕は皇后に太子を毒殺させようとしたが、太子の保母が毎回先に食べて安全を確かめたため、計画は実行できなかった。

五月六月:丞相の交代と太子教育をめぐる議論

  • 五月甲申、丞相蔡義は老病を理由に致仕を願い出て許され、黄金百斤と安車駟馬を賜って帰第した。漢で丞相が正式に致仕する先例はこれが始まりであった。
  • 六月壬辰、魏相が丞相となり、辛丑、丙吉が御史大夫となった。
  • 疏広は皇太子太傅に、兄の子である疏受は少傅に任じられた。
  • 平恩侯許伯は、自分の弟で中郎将の許舜に太子家を監護させようとした。
  • これに対し疏広は、太子の師友は天下の俊英から選ぶべきで、外戚だけに偏るべきではないと諫めた。太子にはすでに太傅・少傅以下の官属が備わっており、さらに外家の者を付けるのは、かえって器量の狭さを天下に示すことになると述べた。
  • 宣帝はこれを良しとし、魏相も自分たちの及ばない見識だと謝した。疏広はますます重んじられた。

京師の災異と蕭望之の抜擢

  • このころ都で大雨と雹があり、大行丞の蕭望之が上疏して、これは大臣が政権を握り、一族が専横していることへの天譴だと述べた。
  • 宣帝はもとより蕭望之の名を聞いており、これを機に謁者に抜擢した。
  • 当時、宣帝は広く賢俊を求めており、民からの建言はしばしば蕭望之に回して事情を問いたださせた。
  • そのうえで、優れた者は丞相・御史に試用を求め、次位の者は中二千石の官に試用させ、下位の者は採用せず聞き置くにとどめた。蕭望之が扱った案件は、皇帝の意にかなうものが多かった。

冬十月:地震を受けた詔と民力休養

  • 冬十月、九月壬申の地震を受け、宣帝は自らの過失を諫める者、賢良方正・直言極諫の士を広く求める詔を出した。官位の高い者をも遠慮せず批判してよいとした。
  • また、自分の徳が足りず辺境の屯戍がやまないことを恥じ、車騎将軍・右将軍の屯兵を罷めた。
  • さらに、まだ行幸に用いていない池苑は貧民に貸し与え、郡国の宮観の修築も停止し、流民の帰還者には公田を貸し、種子と食糧を給し、当面は算賦や徭役を免じた。

霍氏の奢侈と専横

  • 霍氏一門は奢侈・横暴を極めた。霍顕は大邸宅を営み、天子用の輦に似た車を作り、彩色や刺繍、黄金装飾や車輪の防振まで施した。侍婢に五色の糸でそれを曳かせて遊び、家の監奴の馮子都と密通していた。
  • 霍禹・霍山もまた邸宅を飾り立て、平楽館での遊興や黄山苑での大規模な狩猟を繰り返した。霍雲は朝請の日にも病と称して私出し、多くの賓客を従えた。家僕に代理で朝謁させることまであったが、誰も咎められなかった。
  • 霍顕や霍氏の女たちは、昼夜を問わず長信宮に出入りし、その頻度にも節度がなかった。

宣帝の親政と霍氏の切り崩し

  • 宣帝は民間にいた頃から霍氏の勢威の大きさを知っており、内心快く思っていなかった。親政を始めると、御史大夫魏相・給事中らは霍禹・霍雲・霍山らに、霍光の遺業を守らず一門の威勢におぼれていると警告した。
  • やがて霍氏の家奴が御史大夫の家と道を争い、御史の門を踏もうとする事件が起き、霍氏の横暴が公然と人々の非難を招いた。霍顕らも初めて危機を感じた。
  • 魏相が丞相となってしばしば進言し、平恩侯許伯や侍中金安上らが中宮に直接出入りし、なお霍山が尚書を領していたが、宣帝は封事を尚書を通さず奏上できるようにし、臣下とも個別に会った。霍氏はこれを深く憎んだ。
  • 宣帝は霍氏が許皇后を毒殺した疑いをうすうす聞いていたが、まだ断定はしていなかった。そのため霍光の女婿たちを次々と外へ出し、あるいは職を変えた。范明友を光禄勲とし、任勝を安定太守、張朔を蜀郡太守、王漢を武威太守、鄧広漢を少府に移すなどして、一門の中枢から外していった。
  • さらに張安世を衛将軍とし、未央宮・長楽宮の衛尉、城門兵、北軍をその統轄下に置いた。
  • 霍禹には大司馬の名だけを与えたが、印綬はなく、屯兵や官属も取り上げた。范明友・趙平らからも将兵の指揮権を奪い、胡騎・越騎・羽林・宮衛などの兵は、許氏・史氏など皇帝側近の子弟に置き換えた。

法制の弊害と路温舒の上書

  • 武帝以来、法令は煩雑化し、見知・故縦・監臨部主などの連坐規定も整えられた一方で、出罪には厳罰、入罪には緩和など、法運用がゆがみ、役人は法の隙を突いて利益を図るようになった。
  • 罪は同じでも結論が異なり、救いたい者には生き残る理屈を付け、陥れたい者には死刑相当の比附を行うため、人々は深く怨んだ。
  • 廷尉史の路温舒は上書し、宣帝の即位は変乱の後に天が開いた聖代であるから、旧弊を改めるべきだと説いた。
  • 特に獄吏の刻薄さを激しく批判し、拷問下では望む供述はいくらでも得られ、役人はこれを利用して罪を作り上げると指摘した。「絵に描いた獄でも入りたくなく、木で作った役人にも対したくない」という俗言まで引いて、法の運用の酷さを訴えた。
  • 宣帝はこの意見を是認した。

十二月:廷尉平の設置

  • 十二月、宣帝は、近年の官吏が法文を弄んで刑を重くしているのは、自分の不徳であると詔した。
  • 無辜の者が刑を受け、有罪の者がかえって邪心を募らせるようでは、裁判は適正ではないとし、郡国で獄を調べる廷尉史の任は重いのに禄が薄いとして、六百石の「廷尉平」を四人新設した。
  • 以後、季秋ごとの上請案件については、宣帝みずから宣室に斎居して裁決し、刑獄は平になったと評された。
  • ただし涿郡太守鄭昌は、後世のためには役職を増やすより、むしろ律令そのものを整理・削定する方がよいと進言した。

車師・西域の動き

  • 昭帝期、匈奴の圧迫で車師は漢から離れたが、その後また漢に通じた。匈奴は太子の軍宿を人質に取ろうとしたが、軍宿は焉耆へ逃れたため、車師王は別の子の烏貴を太子に立てた。烏貴が王になると、匈奴と婚姻し、漢と烏孫を結ぶ道を遮った。
  • この年、侍郎の鄭吉と校尉司馬憙は、渠犂で免刑囚を使って屯田し、城郭諸国の兵一万余と屯田兵千五百を合わせて車師を攻め、これを破った。車師王は降伏した。
  • 匈奴が救援に出たが、鄭吉らは北上して対峙し、匈奴軍を退けた。車師王はなお匈奴の報復を恐れ、軽騎で烏孫へ逃亡したため、鄭吉はその妻子を長安に送った。
  • 匈奴は王弟の兜莫を新王とし、旧民を東へ移して故地を空けた。そこで鄭吉は兵三百を車師の地に屯田させ、実効支配を固めた。

宣帝の外家の捜索

  • 宣帝は即位以来しばしば母方の親族を探させていたが、似た者が多く、なかなか確定しなかった。
  • この年になって外祖母の王媼と、その子である王無故・王武がようやく見つかった。
  • 宣帝は無故・武を関内侯にし、短期間のうちに莫大な恩賞を与えた。