資治通鑑漢紀十六 中宗孝宣皇帝上之上 地節 二年 前68年
霍光の病重く、死去
- 春、霍光の病が重くなると、天子は自ら見舞いに赴き、涙を流した。
- 霍光は恩に謝し、自分の食邑三千戸を割いて兄の孫である奉車都尉霍山を列侯にし、兄霍去病の祭祀を継がせたいと願い出た。
- その日のうちに、霍光の子霍禹は右将軍に任じられた。
- 三月庚午、霍光は死去した。天子と皇太后は親臨して喪にのぞみ、中二千石に命じて陵墓を造らせ、梓宮・葬具はほぼ天子並みとし、「宣成侯」と諡した。三河の卒を発して墓を築き、園邑三百家を置き、長・丞に守らせ、子孫の爵邑を代々保証した。
魏相の上封事
- 御史大夫魏相は封事を上り、国家は大将軍を失ったばかりなのだから、功臣を顕彰して藩屏とし、大位を空けて権力争いの種を作ってはならないと説いた。
- その上で、車騎将軍張安世を大将軍にし、光禄勲を兼ねさせず、その子張延寿を光禄勲にすべきだと進言した。帝もこれを用いようとした。
張安世の昇進と霍氏抑制論
- 夏四月戊申、張安世は大司馬・車騎将軍となり、尚書事を領した。
- 鳳凰が魯に集まり、群鳥がこれに従い、天下に大赦があった。
- 宣帝は霍光の恩に報いるため、兄の孫霍山を楽平侯に封じ、奉車都尉のまま尚書事を領させた。
- これに対し魏相は、昌成君許広漢を通じて再び封事を上り、『春秋』は世卿を譏り、宋の三世大夫や魯の季孫氏専権を悪むと述べた。
- 後元以来、王室から禄が去り政は冢宰に帰していたが、今また霍光の子が右将軍、兄の子が樞機を握り、兄弟・婿は兵権を握り、霍顕や諸娘は長信宮に自由に出入りして驕奢放縦であるから、このままでは制御不能になると警告した。
- さらに、上書は二重封とし、副封を尚書の主管者が先に開封して都合の悪いものを握り潰す旧例を改め、壅蔽を防ぐべきだと進言した。
- 帝はこれを善しとし、魏相を給事中とし、その議を採用した。
宣帝の親政
- 宣帝は里巷から起った身で、民の困苦を知っていた。霍光の死後、ようやく自ら政事を親裁し、精励して治めた。
- 五日に一度は公務を聴き、丞相以下にそれぞれ職掌を述べさせ、その言と実績を照らし合わせて能力を試した。
- 侍中・尚書で功績ある者には厚賞を与え、子孫にまで及ぶ恩典を施したが、官の配置そのものは軽々しく変えず、制度の規格を整えて上下を安定させた。
- 刺史や郡守・諸侯相を任命する際には、必ず親しく会ってその由来と見識を問い、退いてから実際の行いを調べ、言行が食い違えば必ず原因を探った。
- 宣帝はたびたび、「庶民が田里に安んじ、歎息愁恨しないのは、政治が平らかで訴訟が理にかなっているからだ。それを共に実現するのは良い二千石にほかならない」と語った。
- 太守は地方吏民の根本だから、たびたび替えてはならないとも考え、実績ある二千石には璽書で励まし、増秩・賜金・関内侯の爵を与えた。公卿に欠員が出れば、そうした者たちを順次登用した。
- そのため、この頃の漢では良吏がことに盛んとなり、中興と称される政治の基礎が築かれた。
匈奴の内紛と降附
- 匈奴では壺衍鞮単于が死に、弟の左賢王が立って虚閭権渠単于となった。
- 彼は右大将軍の娘を大閼氏とし、前単于に寵愛されていた顓渠閼氏を退けたため、その父の左大且渠が不満を抱いた。
- この時、漢は匈奴がもはや大きな辺患とならないとして、塞外諸城を撤し、民を休ませていた。単于はこれを聞いて和親を望み、貴人たちと協議した。
- しかし左大且渠は和親を妨げ、漢使の後ろには兵が来るのだから、こちらも兵を先に動かして使者を出すべきだと主張し、自ら呼盧訾王とともにそれぞれ一万騎を率いて塞に沿って南下し、隙あらば侵入しようとした。
- ところが三騎が逃亡して漢に降り、匈奴の意図を告げたため、天子は辺騎を要害に集め、大将軍軍監の治衆ら四人に五千騎を授けて三隊に分け、塞外数百里に出して捕虜を得させた。匈奴側はこれを見て侵入を断念し、引き返した。
- この年、匈奴は飢饉で人畜の六、七割を失い、なおも防衛のため二つの屯に各一万騎を置いた。
- さらに、以前に西嗕を左地へ移していた者たちが、君長以下数千人で家畜を追い、甌脱の戦いを経て漢へ南降した。